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[[1890年代]]、多くの知識人が武力革命によって清を打倒し、[[フランス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のような共和制を確立していこうと唱えた。初期の革命思想の大部分は海外に居住する留学生や華僑青年によるものが多かった。また最初の革命団体もまた海外で組織され、[[1890年]]には[[楊衢雲]]を中心とする[[輔仁文社]]が[[香港]]で成立している。孫文もまた[[1894年]]11月24日に[[サンフランシスコ]]で興中会を結成、革命に必要な軍資金の調達を開始した。両者は[[1895年]]1月に香港で合併し、興中会の名称で活動を継続、同年10月26日には[[広州市|広州]]で初めての武装蜂起である[[広州起義]]を起こしているが、これは失敗に終わった。この事件により香港への入国が禁止された孫文は[[ロンドン]]に活動拠点を移した。翌年には清による[[孫文誘拐事件]]が発生、国際的に報道されたことにより孫文の名が広く知れ渡ることになった。
 
[[1900年]]の義和団の乱で清の威信は失墜し、翌[[1901年]]に締結された[[北京議定書]]により列強の中国進出がより顕著となったことから、清国知識人の間に危機感が広がった。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越えるようになった。当時の留学生の多くが官費留学生であったが、革命思想が留学生間に浸透し、留学生による各種団体が設立され、民主革命の必要性が広く訴えられた。留学していた革命参加者には章炳麟、鄒容、陳天華などがおり、彼らは後に国内革命組織の根幹を構成することとなる。1904年に[[日露戦争]]が勃発すると清朝は中立を宣言したが、その主戦場は清国[[満洲]]地区であった。外国軍隊が自国領土内で戦闘を行う事態に救国の声が高まり、黄興が指導する華興会、陶成章及び蔡元培が指導する光復会を初め、[[江蘇省|江蘇]]の[[励志学会]]、[[強国会]]、[[四川省|四川]]の[[公強会]]、[[福建省|福建]]の[[益聞会]]、[[漢族独立会]]、[[江西省|江西]]の[[易知社]]、[[安徽省|安徽]]の[[岳王会]]、[[広州市|広州]]の[[群智社]]等、各種団体が設立された。これらの革命団体は、相互に提携することは少なく地方色の強い個別運動であったが、清打倒と漢族による共和制による政権樹立を共通の目的としていた。当時は漢族による政権樹立が主眼に置かれたため18省での政権樹立を目指し、東北三省や新疆、チベット及び内モンゴルは当初活動範囲から除外されていた。これらの革命活動は反清を掲げる地下組織と提携する例もあり、[[華興会]]([[湖南省|湖南地区]])は{{仮リンク|袍哥会|en|Gelaohui|label=哥老会}}と、[[光復会 (清国)|光復会]]([[江蘇省|蘇]][[浙江省|浙]][[上海市|滬]]地区)は[[青幇|青幫]]と、[[興中会]](華南地区)は[[三合会]]とそれぞれ密接な関係を構築していた。
 
[[1905年]]夏、孫文は日本で興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、8月20日に[[東京]]にて[[中国同盟会]]が組織され、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を定めた綱領が『[[民報]]』(旧名は華興会機関紙の『二十世紀之支那』、同盟会成立後に改称)上に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり[[胡漢民]]、[[汪兆銘]]が執筆。[[康有為]]や[[梁啓超]]が主編した保皇派機関紙であった『新民叢報』と論戦を繰り広げた。
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==== 士紳及び商紳 ====
[[1907年]]9月から10月、清朝は[[資政院]]及び[[咨議局]]を設置、士紳及び商紳への参政の機会を提供した。[[1909年]]、各省に議局が設置され多くの士紳、商紳が選挙により咨議局に選出された。地方士紳の政治力は地方政治の中で突出した地位を占めた。
 
これらの士紳、商紳は本来は立憲派であったが、その後発足した内閣が朝廷主導であったことに失望、武昌起義以降、立憲派も辛亥革命に参加するようになった。
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=== 黄岡起義 ===
1907年5月、革命党及び三合会の[[許雪秋]]、[[陳生]]、[[陳涌波]]、[[余紀成]]により武装蜂起が決行され、黄岡城(現在の[[潮州市|潮州]][[饒平県]])の占拠に成功した(黄岡起義)。許雪秋、陳生はシンガポール華僑であり、シンガポールで同盟会に参加していた。黄岡起義後、清朝は潮州総兵[[黄金福]]を派遣して武装蜂起を鎮圧にあたった。この結果、革命党員200名が殺害され、6日間で黄岡起義は失敗した。
 
=== 第2回恵州起義 ===
1907年、黄岡起義が発生するとそれに呼応すべく孫文は恵州に人員を派遣して武装蜂起を指示した。6月2日、[[鄧子瑜]]と[[陳純]]等少数の三合会は恵州から20里ほど離れた七女湖で清軍の武器を強奪、5日に泰尾に侵攻し清軍守備兵を撃退すると楊村、三達、柏塘等で清軍を撃破した。これに対し帰善、博羅、龍門各地の会党も武装蜂起に呼応、革命軍は200余名の規模となった。清水師提督[[李准]]は革命軍鎮圧に出動している。その後黄岡起義が失敗すると革命軍への支持が失われたため梁化墟にて革命軍は解散、一部香港に、大部分は羅浮へと逃れている。
 
=== 安徽起義 ===
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=== マレー半島での革命活動 ===
[[File:Danish Seamen's Church, Singapore - 20050925.jpg|thumb|200px|[[1911年]][[12月16日]]、[[孫文]]と軍事顧問であった[[荷馬李]]は[[大廈]]に滞在した。孫文最後のシンガポール滞在である。]]
 
マレー半島での革命活動は[[マレーシア]]と[[シンガポール]]での辛亥革命関連の活動を意味する。当時のマレー半島は中国本土以外で華人人口が最も密集し経済的にも発展していた。孫文は数度にわたりマレー半島を訪問し現地の華人に対し革命への参加を呼びかけ、多くの華人から支持を受けていた。そのためマレー半島は革命活動の主要活動地域の一つとされる。
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== 武昌起義 ==
{{main|武昌起義}}
[[1911年]]3月、武漢新軍内部に文学社が組織された。共進会は[[陸軍第八鎮]]第16協第32標に集中して会員を集め、武昌起義の段階で5,000名の兵士が文学社及び共進会に加入し、新兵総数の3分の1に達した。[[文学社]]と[[共進会]]は新興知識層による革命組織であり、新軍兵士は革命の潜在力となるため、両者は新軍兵士を主要な工作対象とした。
 
[[1911年]]5月9日、清朝は鉄道の国有化政策を実施し、民間資本により建設された[[粤漢線]]、[[川漢線]]の買収を発表した。国有化政策は[[湖南省|湘]]、[[湖北省|鄂]]、[[四川省|川]]、[[広東省|粤]]の民衆の反発を招き、四川省が中心となり[[保路運動]]が展開された。
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== 武昌起義後の発展 ==
=== 各省の呼応 ===
武昌起義の成功後、清は北洋軍を派遣し武漢三鎮江北[[漢口]]及び[[漢陽区|漢陽]]を攻撃、以前罷免されていた北洋軍の[[袁世凱]]が再び召還され北洋軍内部の人心動揺を抑えた。革命軍は[[陽夏防衛戦]]を展開したが北洋軍に敗北、11月27日には江南[[武昌]]に撤退している。47日間の作戦の中で1万人強の死傷者を出したが、武昌防衛を堅持していた。その間に中国14省が次々と清朝からの独立を宣言し、[[内地十八省]]中で清朝の統治が及ぶのは[[甘粛省|甘粛]]、[[河南省|河南]]<ref>[[1911年]]10月、[[宝豊県|宝豊]]で{{仮リンク|袍哥会|en|Gelaohui|label=哥老会}}の[[白朗]]が挙兵していた。</ref>、[[山東省|山東]](途中で独立取消)、[[直隷省|直隷]]のみとなり、独立した各省では一部が革命党の主導を受けたほか、大部分は[[議局]]メンバーによって政治運営が行われた。一方、清朝は直隷、河南、山東、甘粛と清朝の本拠地満洲の東三省(奉天、吉林、黒竜江)を掌握していたほか、内モンゴル王公たちも清朝支持を表明しており、北方では依然として勢力を保っていた。
 
[[10月22日]]、湖南共進会の[[焦達峰]]、[[陳作新]]は会党及び新軍で組織した部隊を率いて[[長沙市|長沙]]で武装蜂起を決行、湖南巡撫[[余格誠]]を敗走させ、巡防営統領[[黄忠浩]]を斬首している。決起軍は中華民国湖南軍政府の成立を宣言、焦達峰を都督、陳作新を副都督とし『討満清檄文』を発表している。
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[[10月29日]]、山西同盟会会員、新軍標統の[[閻錫山]]は[[姚以階]]、[[黄国梁]]、[[温寿泉]]、[[趙戴文]]、[[南桂馨]]、[[喬熙]]等の人と協力し、新軍により[[太原起義]]を発動、山西巡撫[[陸鍾琦]]を殺害して山西軍政府の成立を宣言、閻錫山を都督に選出した。しかし[[12月12日]]に曹{{lang|zh|錕}}による反撃により[[太原市|太原]]から撤退している。
 
10月29日同日、[[直隷省|直隷]]では{{lang|zh|[[灤州兵]]}}が発生した。新軍第二十鎮統制[[張紹曽]]と第三十九協協統[[伍祥禎]]、四十協協統[[潘矩楹]]、第二混成協協統[[藍天蔚]]、第三鎮第五協協統[[盧永祥]]等が協力し、直隷{{lang|zh|[[灤県|灤州]]}}より清朝政府に対し最後通牒要求12条を提出し、年内の国会開設と憲法草案の起草、責任内閣制の採用と皇族の国務大臣就任の制限を求めている。
 
[[10月30日]]、雲南同盟会の[[李根源]]は新軍標統[[蔡鍔]]、[[羅佩金]]及び[[唐継尭]]等と協力し新軍による[[重九起義]]を発動、翌日には[[昆明市|昆明]]を占拠して雲南軍政府が成立、[[雲貴総督]][[李経羲]]を送還し、蔡鍔を都督に選出した。
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同日、浙江光復会会員であり杭州に駐在する新軍八十一標標統[[朱瑞]]、同盟会会員の新軍八十二標[[周承菼]]部軍官[[呉思豫]]、[[呂公望]]、[[蒋百里]]、[[蒋百器]]、[[楊廷棟]]、[[呉肇基]]、光復会の[[王文慶]]は上海より決死隊を率いて武装蜂起を決行、[[杭州市|杭州]]を攻撃した。朱瑞、呉思豫、呂公望等は八十一標及び光復会[[王金発]]により決死隊により軍機局を、[[周承菼]]統八十二標と同盟会[[蒋介石]]、光復会[[尹鋭志]](女性)等は撫台衙門を占拠、楊廷棟率が兵を率いて巡撫府を包囲、巡撫増{{lang|zh|韞}}を捕虜とした。5日に革命勢力は杭州を支配、立憲派であった咨議局議長の[[湯寿潜]]を都督に選出した。
 
[[11月5日]]、江蘇省の立憲派及び紳商は江蘇巡撫[[程徳全]]に対し[[蘇州市|蘇州]]の独立宣言を要求、江蘇革命軍政府が成立し[[程德全]]が都督に就任した。
 
同日、安徽同盟会の[[呉暘谷]]等は標炮営を指揮し武装蜂起、省城[[安慶市|安慶]]を攻撃した。立憲派勢力は安徽巡撫[[朱家宝]]に対し独立を勧告、11月8日に咨議局は独立を宣言、朱家宝を都督に、[[王天培]]を副都督に選出した。
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[[11月9日]]、福建同盟会の[[鄭祖蔭]]、[[彭寿松]]、[[許崇智]]、[[陸軍第十鎮]]統制の[[孫道仁]]等により[[福州市|福州]]で武装蜂起した。清朝総督[[松寿]]は自殺し、11月11日に福建での光復が宣言されて福建軍政府が成立、孫道仁を都督に選出した。
 
10月末、広東同盟会会員の[[陳炯明]]、[[鏗]]及び[[彭瑞海]]等は広東化州、南海、順徳、三水などで民間軍による武装蜂起を決行、[[11月8日]]には[[胡漢民]]の勧告の下、広東水師提督[[李准]]及び[[陸軍第二十五鎮]]統制[[龍済光]]らにより両広総督[[張鳴岐]]に各方面の代表を召集させ広東の独立問題を協議、翌日広東独立が決定された。[[11月9日]]、陳炯明は徽州を占拠、同日広東の独立が宣言されて軍政府が成立、胡漢民を都督に、陳炯明を副都督に選出した。
 
[[11月12日]]、山東煙台同盟会の[[欒鍾尭]]、[[宮錫徳]]等の「十八豪傑」と称される同盟会会員により武装蜂起が決行され、煙台海防営を占拠した。煙台道台[[徐世光]]は武装蜂起を知ると家族を連れ海関税務司のイギリス人<!--梅-->公館に保護を求め逃亡、煙台の独立が宣言されて山東軍政府が成立、陳其美が都督に選出された。[[11月13日]]、山東革命党の[[丁惟汾]]の勧告と[[陸軍第五鎮]]統制[[賈賓卿]]等中下級軍官らの強い圧力の下、山東巡撫[[孫宝琦]]は山東の独立を承認、孫宝琦を都督に選出しているが、[[11月24日]]に孫宝琦は独立を取り消すなどの混乱が続いた。
 
[[11月17日]]、寧夏同盟会支会は寧夏会党による武装蜂起を決行、23日に[[銀川市|銀川]]で支那寧夏革命軍政府が成立した。
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[[File:xinhai01.jpg|thumb|180px|革命軍に投降する清軍]]
 
[[11月8日]]、同盟会会員の指導により[[陸軍第九鎮]]統制[[徐紹テイ|徐紹&#x6968;]]は[[南京市|南京城]]外60里の[[秣陵関]]で武装蜂起を宣言した。徐紹&#x6968;と上海都督・陳其美及び蘇浙革命軍の協議により連合軍を組織して南京を攻略することを決定、徐紹&#x6968;を総司令に任命、11月11日に連合軍司令部が鎮江に成立した。[[11月24日]]から[[12月1日]]、徐紹&#x6968;の指揮の下、後に[[黄興]]も指揮に参加し連合軍は烏龍山、幕府山、雨花台、天保城等の拠点を占拠した。[[12月2日]]に南京城を攻略、これにより長江以南の地域はすべて革命軍の支配下に置かれることになった。
 
[[12月2日]]、イギリス駐漢口領事館<!--葛福-->の斡旋により的武漢革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。
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[[File:Xh3.jpg|thumb|140px|初代臨時大総統に就任した孫文]]
[[12月4日]]、宋教仁、陳其美等は上海における各省代表の[[沈恩孚]]、[[兪寰澄]]、[[朱葆康]]、[[林長民]]、[[馬良 (安徽派)|馬良]]、[[王照]]、[[欧陽振声]]、[[居正]]、[[陶鳳集]]、[[呉景濂]]、[[劉興甲]]、[[趙学臣]]、[[朱福詵]]、さらに[[章炳麟]]、[[趙鳳昌]]、[[章駕時]]、[[蔡元培]]、[[王一亭]]、[[黄中央]]、[[顧忠琛]]、[[彭錫]]などを召集し、上海江蘇省教育総会にて会議を開催、投票方式により孫文への帰国要請と政治参加を求める公電発信を決定、黄興を暫定大元帥、黎元洪を副元帥とし、大元帥による中華民国臨時政府の方針を求めた。しかし黄興は大元帥就任要請を強く固辞したため、17日には黎元洪を大元帥、黄興を副元帥とすることが決定した。議論が国旗問題に及んだ際には湖北代表は鉄星十八星旗を、福建代表は[[青天白日旗]]、江浙代表は五色旗を国旗と主張を行い対立したが、最終的には[[五族共和]]を代表する五色旗を国旗とし、鉄星十八星旗を陸軍旗、青天白日旗を海軍旗とする折衷案が採用された。
 
[[12月11日]]、上海と漢口両地方の17省代表が南京に入り、中央政府設置に向けた会議が続けられた。[[12月14日]]、各省代表は『臨時政府組織大綱』に基づき総統選挙を行う事を決定、黎元洪及び黄興の両派に別れていた。[[12月15日]]、代表は袁世凱の共和制賛成の方針を獲得したため総統選挙は延期され、袁世凱への政治的期待が高まった。
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[[12月28日]]、南京で臨時大総統選挙予備会議が開催され、29日に臨時大総統選挙が実施された。
 
臨時政府組織大綱第1条で「臨時総統は各省都督代表がこれを選挙し、投票総数の3分の2以上の獲得で当選とされ、投票権は各省1票」と規定されていた<ref>「{{lang|zh|臨時大総統,由各省都督代表占拠之;以得満総数三分之二以上者為当選。代表投票權,每省以一票為限。}}」</ref>。選挙に参加したのは直隸、奉天、山東、山西、河南、陝西、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇、浙江、福建、東、西、雲南、四川の17省45名の代表であり、孫文は17票中16票を獲得し、中華民国初代臨時大総統に選出された。
[[ファイル:Linshicanyiyuan.jpg|thumb|200px|[[臨時参議院]]成立時の集合写真影]]
 
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1月3日、各省代表は[[黎元洪]]を臨時副総統に選出し、同時に孫文が提出した臨時政府各部総長、次長名簿を承認、ここに正式に中華民国臨時政府が成立した。
 
臨時政府は下部に10部を設け、陸軍部総長[[黄興]](参謀本部総長兼任)、海軍部総長[[黄瑛]]、外交部総長[[王寵恵]]、司法部総長[[伍廷芳]]、財政部総長[[陳錦濤]]、内務部総長[[程徳全]]、教育部総長[[蔡元培]]、実業部総長[[張謇]]、交通部総長[[湯寿潜]]が就任している。この他の人事としては総統府秘書長に[[胡漢民]]、法制局長に[[宋教仁]]、印鋳局長に[[黄復生]]が任命された。
 
1月11日、各省代表会議は[[南京市|南京]]を臨時首都とし、[[五色旗]]を[[中華民国国旗]]と定め五族共和の象徴とした。[[1月28日]]、各省代表会議により[[臨時参議院]]が設置され、各省代表は参議院議員となり、[[林森]]と[[陳陶遺]]がそれぞれ正副議長に就任した。
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武昌蜂起の後、中国に権益を有す列強諸国は静観の立場を採り、清朝政府または革命政府の中での自己の権益に有利な政権を観察していた。
 
[[1911年]][[10月14日]]、清は罷免され[[安陽市|彰徳]]で病気療養中であった[[袁世凱]]を湖広総督としたが、袁世凱が病を理由に就任を固辞した。10月22日の湖南独立、10月23日の江西独立を受け、10月27日に袁世凱を[[欽差大臣]]に任命し北洋軍を率いて武漢進攻に着手した。10月29日に山西独立、同日に新軍第二十鎮による{{lang|zh|[[州兵諫]]}}の発生を受け、11月1日に清朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命した。しかし[[11月2日]]に漢口攻撃した後は清軍の軍事行動を停止し、水面下で革命政府との講和協議が行われ、[[11月3日]]には清朝により『[[憲法重大信条十九条]]』が発表された。
 
[[11月13日]]、袁世凱が北京に到着して内閣総理大臣に就任、16日には責任内閣を組閣し、清朝の行政権が移譲されるとともに、各国の政府承認を受けている。