「石田重成」の版間の差分

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その後は'''杉山源吾'''を名乗り、[[津軽氏]]の保護のもと深味村(現・[[板柳町]])に隠棲する。または'''杉山八兵衛'''と名を変えて津軽家に家人として仕えて侍大将になったとも言う<ref name="p33"/>。
 
[[慶長]]15年([[1610年]])4月28日に若死したという説があるが、慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して[[寛永]]18年([[1641年]])に53歳で死去したという説も有力である。三男の成保系『杉山系図』には[[藤堂高虎]]に仕え[[伊勢国|伊勢]]で死去したという記述があるが真偽は不明。長男・[[杉山吉成|吉成]]は[[弘前藩]]主・[[津軽信枚]]の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。また、弘前藩の[[忍者]]を統括していたという伝承もある<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201708/20170826_23002.html 弘前の忍者屋敷、石田三成の子孫が住んでいた青森大忍者部の調査で判明(河北新報2017年8月26日)]</ref>
 
石田三成が[[豊臣氏|豊臣]]を名乗ることを許されていたという記録は無いが、宗徳寺([[青森県]][[弘前市]])にある重成以下杉山家の代々の墓には豊臣の姓が刻まれている<ref>[[NHK総合テレビジョン]]「真田丸第二幕 “秀吉チルドレン”それぞれの正義」2016年5月6日放送</ref>(江戸時代に豊臣氏を正式に名乗っていたのは[[高台院|北政所]]の実家[[木下氏|木下家]]のみである)。