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[[1926年]]2月に中国に戻った蔡元培は[[国民革命軍]]北伐作戦に参加する。[[1927年]]、国民政府の教育行政機関である[[大学院]](後の教育部)院長に任じられ、翌年には[[監察院]]院長と[[中央研究院]]院長に就任した。[[満州事変]]後は各方面に抗日運動を呼びかけるなどの政治活動も活発に行なっている。その中、11月27日、[[蕭友梅]]と共に上海に[[国立音楽院]](現在の[[上海音楽学院]])を設立、[[1928年]]には[[杭州市|杭州]]西子湖畔に[[国立芸術院]](現在の[[中国美術学院]])を設立するなど、中国に於ける音楽高等教育の嚆矢となる教育機関の設立を行なっている。
 
[[1932年]]、[[宋慶齢]]、[[魯迅]]、[[楊杏]]等と[[中国民権保障同盟]]を設立、国民党の特務統治に反対し、愛国民主抗日活動を積極的に展開、[[国共合作]]を支持する姿勢を発表した。[[1938年]]には[[国際反侵略大会]]中国分会の名誉会長に就任するなど、晩年になってもその積極性は衰えることは無かった。
 
[[1940年]]3月5日、[[香港]]に於いて病没し、[[香港仔華人永遠墳場]]に埋葬された。その著作は『蔡元培選集』として出版されている。