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== 歴史 ==
[[宮川政運]]の「[[俗事百工起源]]」によると、堺町(現在の[[東京]][[日本橋人形町|人形町]])で[[大久保今助]]がこの鰻丼を考え出したとされている{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=174}}。

一説には所用で江戸から郷里(現・[[常陸太田市]])へ帰るため水戸方面へ向かっていた今助が、[[牛久沼]]のほとりの茶店で鰻の蒲焼で飯を食べようとしたところ、渡し舟が出そうになったため、今助はあわててどんぶり飯の上に蒲焼の皿をかぶせ、渡し舟に飛び乗った。渡し舟が対岸に着き舟を降りた今助は、土手に腰を下ろして蒲焼を食べようとしたら蒲焼は飯の蒸気と熱で蒸されてよい香りになり、味も今まで食べたどの鰻の蒲焼よりも一番美味しい味だった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=174}}。今助は江戸への帰路で再び茶屋に立寄ったとき、この話をしてどんぶり飯にうなぎの蒲焼をのせてもらい、のちに茶屋でうな丼を売り出したところ牛久沼の名物になったという{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=175}}。もしくは、江戸へ戻った今助は丼に飯を入れてその上に蒲焼を載せ「鰻丼」として売り出すようになったともいわれている<ref>[http://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/article/2013081500954/ うな丼発祥の地牛久沼(市内うなぎ専門店一覧)] 龍ヶ崎市公式ホームページ</ref>。

この御飯にタレが染込んだ味はこの[[芝居]]町で大人気となり、[[葺屋町]](堺町の隣町)にある<ref name="mori">{{Cite book |和書 |ref=harv |last=森 |first=銑三 |title=明治東京逸聞史 |volume=2 |publisher=平凡社 |year=1969|url=http://books.google.co.jp/books?id=y2UfAQAAMAAJ}}、p.270 "鰻丼を始めたのは日本橘葺屋町の大野屋で、天保の飢饉当時に、大丼の鰻飯を天保銭一枚で売ったのが当って"</ref>[[大野屋]]が「元祖鰻めし」という看板で売り出したのが最初だと言う。売り出しを開始した年代は特定されていないが、[[中村座]]や[[市村座]]が[[1841年]]に焼失して移転した経緯から、その前の頃に売り出したと推定される。ともあれ、天保の飢饉([[1844年]])に、[[天保通宝]]一枚で売り出したのが評判を呼んだという<ref name="mori"/>。
 
近世風俗史の基本文献とされている[[守貞謾稿]]によると、鰻飯は「'''鰻丼飯'''」の略。明治に入る頃まで京阪では「まぶし」、江戸では「'''[[丼|どんぶり]]'''」と言えば、この「鰻丼」を指した<ref>『[[守貞漫稿]]』「京坂にてまぶし、江戸にて、どんぶりと云ふ。鰻丼飯の略なり」</ref>。また、このときに[[割り箸]]が登場した。現在も「鰻飯」という言葉を使う地域や店舗がある。