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'''織田 常松'''(おだ じょうしょう、生没年不詳)は、[[室町時代]]の[[武将]]。[[管領]]・[[斯波氏]]の被官。[[尾張国|尾張]][[守護代]]。[[受領名]]は[[伊勢国|伊勢]]守。常松は[[戒名|法名]]であり、[[織田教長]]の父である'''織田教信'''(- のりのぶ)と同一人物とされる。また、最近の研究では、[[応永]]9年([[1402年]])頃、織田一族で最初に[[尾張国|尾張]][[守護代]]に任命されたと見られる[[織田教広]]と同一人物であるという見方もある<ref name=kawamura>尾張守護代沿革小稿 河村昭一</ref>。教信、教広の「教」の字は同国[[守護]]の[[斯波義教]]より偏[[諱]]を受けたものである。
 
[[鎮守府将軍]]・[[藤原利仁]](またはその岳父・[[藤原有仁]])の一族と思われる[[藤原将広|藤原兵庫助将広]](または同一人物<ref>『清洲町史』掲載の織田氏推定系図</ref>もしくは同族)の子とされる。
 
[[尾張国|尾張]][[守護代]]は初めは[[甲斐氏]]が務めていたが、[[応永]]79年([[14001402年]])頃、尾張守護でもあった管領・斯波義教が尾張守護代・[[甲斐将教]](祐徳)を更迭し、織田伊勢守入道常松を新たな守護代に任じ、以後織田氏が尾張の守護代職を世襲するようになったといわれる。しかし、[[守護]]斯波義教を補佐するため、在京することが多く、弟と推定される一族の[[織田常竹|織田出雲守入道常竹]]が[[代官|又守護代]]として尾張を在地支配をしていたとされる。
 
古文書などでは、[[応永]]9年([[1402年]])7月20日の[[大徳寺文書]]に、「'''織田教広'''」が守護代の権限を行使しているのが初出。<ref name=kawamura></ref>
[[醍醐寺]]座主・[[満済]]の日記(『[[満済准后日記]]』)によると、[[正長]]元年([[1428年]])8月6日、常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、[[満済]]が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、この頃まで生存が確認される。『[[建内記]]』の[[永享]]3年([[1431年]])3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあることからこの間に死去したと思われる。
 
[[応永]]10年([[1403年]])8月9日の[[醍醐寺文書]]に、「'''織田伊勢入道'''」とあり、教広と同一人物である場合、この時期に出家したと見ることができる。<ref name=owarigunsho>尾張群書系図部集</ref>
 
[[醍醐寺]]座主・[[満済]]の日記(『[[満済准后日記]]』)によると、[[正長]]元年([[1428年]])8月6日、常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、[[満済]]が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、この頃まで生存が確認される。『[[建内記]]』の[[永享]]3年([[1431年]])3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあることからこの間に死去したと思われる。
 
[[正長]]2年([[1429年]])4月29日の[[大徳寺文書]]には、[[守護代]]として[[織田朝長]]の活動が見えるので、それまでに交代したと見られる。
 
『[[建内記]]』の[[永享]]3年([[1431年]])3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあることからこの間に死去したと思われる。
 
== 異説 ==