「ハンニバル」の版間の差分

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==== シリアへ亡命 ====
{{main|ローマ・シリア戦争}}
続いてハンニバルは[[国力]]の回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆に[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]]を始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がってしまった。また、ハンニバルの改革は効果的ではあったが、かなり強引なものでもあり、カルタゴ国内に反ハンニバル派の台頭を許してしまう。反ハンニバル派は「ハンニバルがシリア([[セレウコス朝]])と内通している」とローマに訴え讒言し、ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定した。身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、[[亡命]]のためシリア王[[アンティオコス3世]]の許へ走った。なお、実際に内通していたかどうかは不明である
 
セレウコス朝ではアンティオコス3世の[[軍事顧問]]として意見を具申したともされ、シリアが[[ローマ・シリア戦争|ローマとの戦争]]に突入した際、ハンニバルはシリア軍の[[参謀]]の一人としてローマと対峙するが、若い[[指揮官]]や王に疎まれて意見は採用されず、[[エウリュメドン川の戦い (紀元前190年)|エウリュメドン川の戦い]]でシリア軍将軍[[アポロニオス]]との連携不足のために敗北する。そしてセレウコス朝自体もまた[[マグネシアの戦い]]で大敗を喫して、アンティオコスは[[降伏]]を余儀なくされた。