「ロンバルディア州」の版間の差分

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隣接する州およびそれに相当する行政区画は以下の通り。
 
*北 - [[グラウビュンデン州]] ([[スイス]]) - 北
*北東 - [[トレンティーノ=アルト・アディジェ州]] - 北東
*東 - [[ヴェネト州]] - 東
*南 - [[エミリア=ロマーニャ州]] - 南
*西 - [[ピエモンテ州]] - 西
*北西 - [[ティチーノ州]] (スイス) - 北西
 
=== 地勢 ===
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== 歴史 ==
[[古代ローマ]]時代、ロンバルディアは[[ピエモンテ州|ピエモンテ]]や[[エミリア=ロマーニャ州|エミリア=ロマーニャ]]と共に[[ガリア・キサルピナ]](ローマから見て「[[アルプス山脈|アルプス]]よりこちら側の[[ガリア]]」の意)と呼ばれていた。メディオラヌム(現在のミラノ)、ティキヌム(パヴィーア)などの都市は、ローマ人以前にさかのぼ起源を有する。紀元前3世紀頃よりローマ人はこの地を征服。ガリア・キサルピナ[[属州]]の一つであっが置かれてい。[[568年]]、[[ゲルマン人]]ランゴバルト族侵入し、[[ランゴバルド王国]]を築く。[[774紀元前42年]]、[[カール大帝]]により首都の[[パアウグストゥス|オクタヴィヌス]]が陥落し王国は滅亡。[[1162年]]、皇(のちのアウグストゥス)によって[[イタードリヒ1世ア本土 (神聖古代ローマ皇帝)|イタードリヒ1世ア本土]](バルバロッサ、またはバーバロサ)より、ミラノも征服され破壊編入された。[[1167紀元前27年]]に成立した[[ロンバルディ同盟]]ウグストゥスにより復興する。そのころから[[ヴィスコって第11行政区「トラティ家]]が台頭しはじめ、[[1395年]]にはジョヴァンニ・ガレアッツォ・ヴィコンテパダナ」{{enlink|Regio XI Transpadana||it}}(首府:メデがミノ公になり[[ミラノ公国]]ヌム)成立する設置された
 
[[568年]]、[[アルボイーノ]]率いる[[ゲルマン人]][[ランゴバルド人|ランゴバルト族]]が侵入。[[パヴィーア]]を首都として[[ランゴバルド王国]]を築いた。「ロンバルディア」の地名はランゴバルド族(ロンバルド人)に由来する。[[773年]]、[[フランク王国]]の[[カール大帝]]はランゴバルド王国に宣戦を布告し北イタリアに侵入、774年にはパヴィーアが陥落して王国は滅亡した。アルボイーノ以来ランゴバルドの王たちは[[イタリア王]]を称しており、カール大帝も「[[ロンバルディアの鉄王冠]]」を手中にしてイタリア王に即位した。以後もパヴィーアは[[イタリア王国 (中世)|中世イタリア王国]]の首都と概念され、12世紀頃まで神聖ローマ皇帝はパヴィーアでイタリア王として戴冠した。
[[1499年]]、フランスの[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の侵攻により[[スフォルツァ家]]がミラノから追放される。
 
[[神聖ローマ皇帝]]と[[ローマ教皇]]との対立、[[神聖ローマ帝国]](とくに[[ホーエンシュタウフェン朝]])が北イタリアに干渉を図る[[イタリア政策]]、[[都市国家]]([[コムーネ]])の勃興を背景として、12世紀以降[[教皇派と皇帝派]]の紛争が発生。[[1162年]]、皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]](バルバロッサ、またはバーバロサ)により、ミラノも征服された破壊された。ミラノやクレモナなど北イタリアの諸都市は[[1167年]]、[[ポンティーダ]]の修道院において[[ロンバルディア同盟]]を締結し、皇帝に対抗。[[1176年]]、ロンバルディア同盟は[[レニャーノの戦い]]でフリードリヒ1世を破り、皇帝に都市の自治を認めさせた。
[[1796年]]には[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]により占領され、彼が建国した[[チザルピーナ共和国]]の一部となった。
 
13世紀にはミラノで[[ヴィスコンティ家]]が台頭、1277年には{{仮リンク|オットーネ・ヴィスコンティ|en|Ottone Visconti}}が[[シニョリーア|シニョーレ]](僭主)となった。[[1395年]]にはジョヴァンニ・ガレアッツォ・ヴィスコンティがミラノ公になり[[ミラノ公国]]が成立する。15世紀には傭兵隊長([[コンドッティエーレ]])出身の[[フランチェスコ・スフォルツァ]]がミラノ公となり、五大国による[[ローディの和]](1454年)で諸都市国家間の戦争に終止符を打った。しかし、[[1499年]]にフランスの[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]がミラノ公国の権力抗争に介入して北イタリアに侵攻([[第一次イタリア戦争]])、[[スフォルツァ家]]がミラノから追放される。シャルル8世のイタリア遠征は失敗に終わるが、フランスによる[[イタリア戦争]]は16世紀を通して継続的に行われることになる。1535年、ミラノ公国はスペイン王国([[スペイン・ハプスブルク朝]])に服従、1700年のスペイン・ハプスブルク朝断絶後は、[[スペイン継承戦争]]を経て[[ラシュタット条約]](1707年)によってミラノ公国をオーストリア(オーストリア・ハプスブルク家)が支配することとなった。
[[1814年]]にナポレオンが失脚すると、[[ウィーン会議]]により、[[ヴェネツィア共和国]]のイタリア領であった[[ヴェネト州|ヴェネト]]などと共に、[[オーストリア帝国|オーストリア]]皇帝を王とする[[ロンバルド=ヴェネト王国]]の一部とされた。
 
[[1796年]]、[[フランス第一共和政|フランス共和国]](総裁政府)は、[[ナポレオン・ボナパルト]]をイタリア方面軍司令官に任命し、[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア戦役]]が開始される。ナポレオンは[[ロディの戦い]]でオーストリア軍を破ってミラノに入城し、ロンバルディア(ミラノ公国領)を占領。ミラノを首都とする[[姉妹共和国|フランスの衛星国]]・[[トランスパダーナ共和国]]が建国され、翌1797年には[[チザルピーナ共和国]]の一部となった。[[第二次対仏大同盟]]を結んだオーストリアは1799年にロンバルディアを含む北イタリアを一時奪還するが、[[リュネヴィルの和約]](1801年)でチザルピーナ共和国を承認。チザルピーナ共和国はその後、ナポレオンを大統領とする[[イタリア共和国 (1802年-1805年)|イタリア共和国]](1802年 - 1805年)、次いでナポレオンを国王とする[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]](1805年 - 1814年)に移行した。
{{仮リンク|第2次イタリア独立戦争|it|Seconda guerra di indipendenza italiana|fr|Campagne d'Italie (1859)|en|Second Italian War of Independence}}([[イタリア独立戦争]])の結果、[[1859年]][[7月11日]]に[[サルデーニャ王国]]に併合され、[[1861年]]にサルデーニャ王国はイタリア半島を統一し、ロンバルディアも[[イタリア王国]]の一部となった。
 
[[1814年]]のナポレオン失脚後、[[ウィーン会議]]の結果として1815年にロンバルディアと[[ヴェネト州|ヴェネト]](旧[[ヴェネツィア共和国]]領)には[[ロンバルド=ヴェネト王国]]が設立された。ロンバルド=ヴェネト王には[[オーストリア帝国|オーストリア]]皇帝[[フランツ2世|フランツ1世]]が就き、[[オーストリア帝国]]([[ハプスブルク君主国]])の構成国となった。1848年にはミラノにおいてオーストリアによる支配に対する反乱が発生([[ミラノの5日間]])、{{仮リンク|第1次イタリア独立戦争|it|Prima guerra di indipendenza italiana|fr|Première guerre d'indépendance italienne|en|First Italian War of Independence}}の契機となった([[イタリア統一運動]]参照)。
 
1859年、フランスと結んだサルデーニャ王国は、オーストリアに対し{{仮リンク|第2次イタリア独立戦争|it|Seconda guerra di indipendenza italiana|fr|Campagne d'Italie (1859)|en|Second Italian War of Independence}}を挑んだ。ミラノ周辺での[[マジェンの戦い]]、[[ソルフェーノの戦い]]を経て(なお、ソルフェリーノの凄惨な戦場が)、フランスは単でオーストリアと休戦([[ヴィッラフランカの休]])。この結果、ロンバルディアは[[1859年]][[7月11日]]に[[サルデーニャ王国]]に併合された。[[1861年]]サルデーニャ王国はイタリア半島を統一し、ロンバルディアも[[イタリア王国]]の一部となった。
 
== 行政区画 ==
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:*ヴァルテッリーナの[[リンゴ|林檎]](IGP) - [[ソンドリオ県]]ヴァルテッリーナ地方
:*マントヴァの[[セイヨウナシ|梨]](IGP){{enlink|Pera Mantovana||it|a=on}}
 
=== 観光地 ===
[[ミラノ県]]の県都[[ミラノ]]には、史跡としては[[スフォルツァ城]](スフォルツェスコ城)が有名で、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]のガレリア、またモンテナポレオーネ通りがある。教会建築としては、[[ミラノのドゥオーモ|ドゥオーモ]](ミラノ大聖堂)、[[サンタンブロージョ教会]]、[[サン・ロレンツォ聖堂]]、[[サン・ナザロ・マッジョーレ聖堂]]、[[サンテウストルジョ聖堂]]、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]]がある。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会には、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]作の著名な絵画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』があり、人気スポットとしては[[スカラ座]]が有名である。博物館・美術館には、[[ブレラ美術館|ブレラ絵画館]]、近代美術館 (la Galleria d'Arte Moderna)、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館、バガッティ・ヴァルセッキ美術館 [http://www.museobagattivalsecchi.org]がある。
 
=== 世界遺産 ===
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* [[アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群]](一部)
** ラヴァニョーネ(ブレシア県[[デゼンツァーノ・デル・ガルダ]])、サン・シヴィーノ・ガッビアーノ([[マネルバ・デル・ガルダ]])、ルガーナ・ヴェッキア (ブレシア県[[シルミオーネ]])、ルコーネ(ブレシア県[[ポルペナッツェ・デル・ガルダ]])、ラガッツィ・デル・ヴォ(クレモナ県[[ピアーデナ]])、バンデ=コルテ・カルパーニ(マントヴァ県[[カヴリアーナ]])、カステッラーロ・ラグセッロ(マントヴァ県[[モンツァンバーノ]])、イゾリーノ・ヴィルジニア=カミッラ=イゾラ・サン・ビアジョ(ヴァレーゼ県[[ビアンドロンノ]])、ボディオ・チェントラーレ・オ・デッレ・モネーテ (ヴァレーゼ県[[ボーディオ・ロンナーゴ]])、イル・サッビオーネ・オ・セッテントリオナーレ(ヴァレーゼ県[[カドレッツァーテ]])
 
=== 観光地 ===
[[ミラノ県]]の県都[[ミラノ]]には、史跡としては[[スフォルツァ城]](スフォルツェスコ城)が有名で、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]のガレリア、またモンテナポレオーネ通りがある。教会建築としては、[[ミラノのドゥオーモ|ドゥオーモ]](ミラノ大聖堂)、[[サンタンブロージョ教会]]、[[サン・ロレンツォ聖堂]]、[[サン・ナザロ・マッジョーレ聖堂]]、[[サンテウストルジョ聖堂]]、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]]がある。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会には、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]作の著名な絵画『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』があり、人気スポットとしては[[スカラ座]]が有名である。博物館・美術館には、[[ブレラ美術館|ブレラ絵画館]]、近代美術館 (la Galleria d'Arte Moderna)、レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館、バガッティ・ヴァルセッキ美術館 [http://www.museobagattivalsecchi.org]がある。
 
[[ベルガモ]]県には、労働者のための町[[クレスピ・ダッダ]]がある。[[19世紀]]にクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピにより労働者のための理想郷としてアッダ川とブレンブロ川が合流する三角地帯につくられた。[[世界遺産]]である。
 
== スポーツ ==
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{{イタリアの地方行政区画}}
{{ロンバルディア州}}
{{normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:ろんはるていあ}}
 
[[Category:ロンバルディア州|*]]
[[Category:イタリアの州]]