「重仁親王」の版間の差分

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乱後、崇徳上皇は[[讃岐国]]に流罪となり、重仁親王は[[仁和寺]]に入り出家した。[[寛暁]][[大僧正]]のもとで仏道に励んだが、応保2年([[1162年]])に足の病により薨去した。[[享年]]23。
 
なお、重仁親王は出家後父母の居る讃岐に行き21歳で亡くなるまで父崇徳上皇や母兵衛佐局の近くで暮らしたとの伝説があり、[[高松市]]檀紙町には重仁親王廟まである<ref>[http://www.rnc.co.jp/radio/radio_car/rcar120920/eggy/large.asp?fname=2012092017295005.jpg 重仁親王廟] - 西日本放送</ref>。{{ウィキ座標度分秒|34|17|58.5|N|134|00|08.1|E}}
 
== 系図 ==