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* [[1705年]]([[1709年]]とするものもあり)、薩摩[[山川町 (鹿児島県)|山川]]の[[前田利右衛門]]は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった。前田利右衛門を祀る[[徳光神社]]には「さつまいも発祥の地」とする碑が建てられている。
* [[1711年]]、薩摩を訪れた[[下見吉十郎]]が薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていたサツマイモを持ち出し、故郷の[[伊予国]][[瀬戸内海]]の[[大三島]]での栽培を開始した。
: [[1732年]]、[[享保の大飢饉]]により瀬戸内海を中心に西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、った。伊予国大三島の周辺では餓死者がまったく出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。また、[[石見銀山]]では代官であった[[井戸正明]]が年貢の減免、年貢米の放出、官金や私財の投入などを行う一方、大森地区(島根県大田市)の栄泉寺で、薩摩国の僧である泰永から甘藷が救荒作物として適しているという話を聞き、種芋を移入。その年に種付けを試みたが、種付けの時期が遅かったことなどもあって期待通りの成果は得られなかった。しかしながら、邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛が収穫に成功。その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により、井戸正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っている
* 八代将軍・[[徳川吉宗]]の当時、[[儒学]]者として知られていた[[青木昆陽]]が<!---八代将軍・徳川吉宗はサツマイモの栽培を関東に広めようと決意する。そして起用されたのが、青木昆陽であった。--->、その才能を買っていた[[八丁堀 (東京都中央区)|八丁堀]]の[[与力]][[加藤枝直]]により[[町奉行]]・[[大岡忠相]]に推挙され、幕府の書物を自由に閲覧できるようになった。昆陽は同じ[[伊藤東涯]]門下の先輩である[[松岡成章]]の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上した。
: [[1734年]]、青木昆陽は[[薩摩藩]]から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸[[小石川植物園]]、[[下総国|下総]]の馬加村(現[[千葉市]][[花見川区]][[幕張|幕張町]])、[[上総国|上総]]の[[九十九里浜]]の不動堂村(現:[[九十九里町]])において試験栽培し、[[1735年]]栽培を確認。これ以後、[[東日本]]にも広く普及するようになる。