「田宮虎彦」の版間の差分

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[[1947年]]に『世界文化』に発表した「霧の中」で注目され、小説家生活に入る。精力的に作品を発表し、[[1951年]]『絵本』で[[毎日出版文化賞]]を受ける。
 
[[1956年]]11月、妻を胃癌で喪って悲嘆に暮れる。妻(旧制:平林)千代の妹は、英文学者[[小田島雄志]]の妻<REF>[[小田島雄志]]『半自伝 このままでいいのか、いけないのか』(白水社)P.84</REF>。

[[1957年]]、亡妻との往復書簡が『愛のかたみ』の題名で[[光文社]]から刊行され[[ベストセラー]]となり多くの日本人が感動した。しかし、『[[群像]]』[[1957年]]10月号で[[平野謙 (評論家)|平野謙]]が「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」で夫婦観や文学観を「変態的」と評論し<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=YERZh9rucO8C&pg=PT40 『愛と死について考える』]田中澄江、PHP研究所, 1994</ref>、[[1980年]]7月には[[小田切秀雄]]がカルチャーセンターの講義で「平野謙さんから聞いた話」として、田宮のことを「『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」と発言<ref>大川渉『文士風狂録』194頁</ref>。これに対し、田宮は『新潮』1980年10月号に小文「トルストイとスターリン」を発表し、抗議した。
 
[[1988年]]1月に[[脳梗塞]]で倒れ[[玉川病院|日産玉川病院]]にて療養、右半身不随になり、同年[[4月9日]]午前9時15分頃、同居人である旧友の子息の不在中に東京都港区北青山2丁目の[[マンション]]11階ベランダから[[飛び降り|投身]][[自殺]]する。脳梗塞が再発し手がしびれて思い通りに執筆できなくなったため命を絶つとの遺書が残されていた。[[享年]]77。墓所は[[多磨霊園]]にある。