「友利結」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
日本時間の本日5日よりコーチ登録から外れたため
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
72行目:
{{by|2007年}}は登録名を再び'''デニー'''とした。同年はシーズンの大半を[[ウエスタン・リーグ]]で過ごし、レギュラーシーズン終了前に[[戦力外通告]]を受けた。[[落合博満]]の計らいもあって、同年10月4日の本拠地最終戦(対[[広島東洋カープ]]戦)が退団試合となり、同年限りでの退団を表明した。現役続行の可能性を残していたがオファーはなく、同年11月27日に現役引退を表明。
 
=== 現役引退後 ===
{{by|2008年}}は[[ボストン・レッドソックス]]で国際担当顧問兼巡回コーチに就任したほか、[[ニッポン放送]]の「[[ショウアップナイター]]」で日本のプロ野球の試合解説を担当した。また、[[日刊スポーツ]]評論家も務めた。野球評論家としての名義は'''デニー友利'''とし、[[吉本興業]]スポーツ部に所属していた。同年に行われた「RICOHプレゼンツ MLB開幕戦」では、レッドソックスのチームスタッフとして[[松坂大輔]]・[[岡島秀樹]]に同行して参加している。
 
{{by|2012年}}からは、横浜DeNAベイスターズの一軍投手コーチとして現場復帰することになった。登録名は「目立たないために」という本人の意向により、'''友利結'''となる<ref>[http://www.baystars.co.jp/bay/news/team_detail.html?category=4&news_thread=1&id=3294 2012年度 横浜DeNAベイスターズ・コーチングスタッフ] - 横浜DeNAベイスターズ公式サイト 2012年12月16日閲覧。</ref><ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20111220-OHT1T00202.htm デニーコーチ断言!沖縄キャンプは「初日から死ぬよ」] - スポーツ報知 2011年12月21日、当日閲覧</ref>。背番号は'''89'''。登録名は友利としたものの、長年デニーを登録名としていたためか、しばらくするとほとんどの人がデニーと呼ぶようになったという<ref name="QR_interview"></ref>。DeNAコーチ時代は、闘志を全面に出した指導を主にし、投手の交代時やピンチを招いた時にマウンドへ行き、投手の胸を軽く叩く〝闘魂注入〟を行う事がよくあり、グッズとして闘魂注入パーカー等が当時販売されていた。投手陣の与四球が大幅に増え2012年は480、2013年は551と2年連続で12球団ワーストの与四球を記録した。2013年の551はこれまでの球団ワースト記録だった1976、77年のシーズンの502を上回る<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=016-20131007-12 球団ワースト四球記録…]週刊ベースボール</ref>、球団ワースト記録。チーム防御率、失点も2年連続で12球団最下位に低迷し、{{by|2013年}}[[10月9日]]に球団から来季の契約を結ばない事が発表された<ref>[http://www.baystars.co.jp/news/2013/10/1009_02.php 2014年度コーチ契約について]横浜DeNAベイスターズ球団公式サイト2013年10月9日配信</ref>。
 
[[2013年]][[10月22日]]、[[2014年]]シーズンより中日ドラゴンズの投手コーチに就任することが発表された<ref>[http://dragons.jp/news/2013/13102201.html 来季のスタッフについて]中日球団公式サイト2013年10月22日配信</ref>。2014年から2015年はベンチ担当、2016年からはブルペン担当に配置転換され翌2017年も開幕時から8月31日まで担当していたが、9月1日より再びベンチ担当へ配置転換、さらに34日後の9月45より投手コーチ登録から外れ兼務していた編成部(国際渉外担当)専任となることが発表された<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170904-OHT1T50133.html 【中日】友利投手コーチ、コーチ登録外れる…投手陣低迷の引責]スポーツ報知2017年9月4日、当日閲覧</ref>。
 
== 人物・エピソード ==