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[[File:Hans Krása (1899-1944).jpg|thumb|Hans Krása]]
'''ハンス・クラーサ'''('''Hans Krása''', [[1899年]][[11月30日]] - [[1944年]][[10月17日]])は、[[ボヘミア]]の[[作曲家]]。
'''ハンス・クラーサ'''('''Hans Krása''', [[1899年]][[11月30日]] - [[1944年]][[10月17日]])は[[ボヘミア]]の[[作曲家]]。[[プラハ]]出身。[[チェコ人|チェコ系]]の父親は弁護士で、母親は[[ドイツ人|ドイツ系]]であった。幼児期に[[ピアノ]]と[[ヴァイオリン]]を学んで、プラハのドイツ音楽アカデミーで作曲を学ぶ。卒業後は、ドイツ国立歌劇場(現・[[プラハ国立歌劇場]])の声楽コーチを勤め、同歌劇場の音楽監督[[ツェムリンスキー]]と出会って多大な影響を受ける。[[1927年]]にツェムリンスキーを追って[[ベルリン]]に移り、同地で[[アルベール・ルーセル]]に紹介される。ベルリン時代に度々[[フランス]]を訪れ、ルーセルの指導を仰いだ。[[フランス]]では[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]のサークルから支持されたと言われる。やがて[[プラハ]]に戻り、プラハ国立歌劇場の声楽コーチ職に戻った。
 
'''ハンス・クラーサ'''('''Hans Krása''', [[1899年]][[11月30日]] - [[1944年]][[10月17日]])は[[ボヘミア]]の[[作曲家]]。[[プラハ]]出身。[[チェコ人|チェコ系]]の父親は弁護士で、母親は[[ドイツ人|ドイツ系]]であった。幼児期に[[ピアノ]]と[[ヴァイオリン]]を学んで、プラハのドイツ音楽アカデミーで作曲を学ぶ。卒業後は、ドイツ国立歌劇場(現・[[プラハ国立歌劇場]])の声楽コーチを勤め、同歌劇場の音楽監督[[ツェムリンスキー]]と出会って多大な影響を受ける。[[1927年]]にツェムリンスキーを追って[[ベルリン]]に移り、同地で[[アルベール・ルーセル]]に紹介される。ベルリン時代に度々[[フランス]]を訪れ、ルーセルの指導を仰いだ。[[フランス]]では[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]のサークルから支持されたと言われる。やがて[[プラハ]]に戻り、プラハ国立歌劇場の声楽コーチ職に戻った。
作曲家としては、[[1920年]]に《クリスチャン・モルゲンシュテルンの詩による4つの管弦楽伴奏歌曲》によりデビュー、発表後まもなく幅広い称賛を勝ち得た。もう一つの大作は、[[1938年]]に教育省により主催された作曲コンテストのために書かれた、児童オペラ《ブルンジバル ''Brundibár'' 》である。台本は[[アリストパネス]]の戯曲に基づき、友人のアドルフ・ホフマイステルによって作成された。
 
作曲家としては、[[1920年]]に《[[クリスティアン・モルゲンシュテルン|クリスチャン・モルゲンシュテルン]]の詩による4つの管弦楽伴奏歌曲》によりデビュー、発表後まもなく幅広い称賛を勝ち得た。もう一つの大作は、[[1938年]]に教育省により主催された作曲コンテストのために書かれた、児童オペラ《ブルンジバル ''Brundibár'' 》である。台本は[[アリストパネス]]の戯曲に基づき、友人の[[アドルフ・ホフマイステル]]([[:de:Adolf Hoffmeister]])によって作成された。
 
《ブルンジバル》の完成後、[[1942年]][[8月10日]]に[[ナチス]]により拘束され、[[テレージエンシュタット|テレージエンシュタット強制収容所]]に送致される。《ブルンジバル》は所内で改訂された後、そこで55回の上演を見た。クラーサはテレジンに隔離された年代が最も実り豊かな時期であったが、苛酷な環境のためにいくつかの作品が失われた。