「アレクサンダー・グラハム・ベル」の版間の差分

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[[ファイル:Alexander Graham Telephone in Newyork.jpg|thumb|1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベル]]
ベルとパートナーのハバードとサンダースは、その特許を[[ウエスタンユニオン]]に10万ドルで売ることを申し出ているが、ウエスタンユニオン社長は電話をおもちゃ以外の何物でもないと考えており、買い取らなかった。2年後彼は友人に2500万ドルでも安売りだと考えるだろうと話している。そのころには特許を売ることはもう考えていない<ref>Fenster, Julie M. [http://web.archive.org/web/20060317071408/http://www.americanheritage.com/events/articles/web/20060307-alexander-graham-bell-telephone-patent-telegraph-elisha-gray-thomas-watson-gardiner-hubbard-western-union-thomas-edison.shtml "Inventing the Telephone—And Triggering All-Out Patent War."] ''AmericanHeritage.com, American Heritage'', 2006.(2006年3月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。出資者は百万長者となり、ベルも借金を返し終わると100万ドルの財産を築くようになった<ref>{{Harvnb|Winfield|1987|p=21}}</ref>。
 
この新発明を紹介すべく、ベルは一連の公開デモンストレーションと講演を科学界や大衆向けに行った。1876年の[[フィラデルフィア]]での[[フィラデルフィア万国博覧会|万国博覧会]]で電話を公開して国際的注目を集めた<ref>{{Harvnb|Webb|1991|p=15}}</ref>。この万博には海外からも大勢の客が訪れており、その中にブラジル皇帝[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]もいた(ちなみに、ペドロ2世はかつてベルの聾学校を視察したことがあった)。また、スコットランドの有名な科学者[[ウィリアム・トムソン]]卿にも個人的にデモンストレーションを見せ、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]には[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]に招待され、観衆の前で電話を披露した。女王はそのデモンストレーションを "most extraordinary"(最も並外れている)と評した。そのようにして、この革命的機器の普及の土台を築いていった<ref>{{Harvnb|Ross|2001|pp=21-22}}</ref>。
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1887年1月13日、アメリカ政府は詐欺と偽証に基づいてベルの特許を無効にしようと提訴した。その訴訟は最高裁まで続き、下級裁判所での元もとの主張については判断を下さずに、最高裁判所にてベルの会社側が勝利を勝ち取った<ref>[http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=167&invol=224 "U.S. Supreme Court: U S v. AMERICAN BELL TEL CO, 167 U.S. 224 (1897)."] ''caselaw.lp.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref><ref>[http://supreme.justia.com/us/128/315/case.html "United states V. American Bell Telephone Co., 128 U.S. 315 (1888)."] ''supreme.justia.com.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref>。この裁判は9年かかり、その間に2人の検事が亡くなり、ベルの2つの特許(1876年3月7日の第174,465号と1877年1月30日の第186,787号)も失効していたが、裁判長は[[判例]]として重要だということで裁判を継続した。当初の訴訟から双方の利害対立する点が変化してきたため、[[アメリカ合衆国司法長官]]は1897年11月30日、いくつかの問題に決定を下さないまま訴訟を取り下げた<ref>[http://bst.sagepub.com/cgi/reprint/22/6/426.pdf Basilio Catania 2002 "The United States Government vs. Alexander Graham Bell. An important acknowledgment for Antonio Meucci."] ''Bulletin of Science Technology Society'', 22, 2002, pp. 426–442. Retrieved: December 29, 2009.</ref>。
 
1887年の訴訟でなされた証言記録の中に、イタリアの発明家[[アントニオ・メウッチ]]が1854年に世界初の実動する電話を作ったと主張した証言がある。1886年、ベルの関わった3つの訴訟の1つめで、メウッチが発明の優先順位を決定付ける証人として証言台に立った。メウッチの証言は発明の証拠物件が示されなかったため、異議を唱えられた。うわさによればその証拠物件はニューヨークの [[:en:The ADT Corporation|American District Telegraph]] (ADT) の研究所で紛失し、同所は1901年に[[ウエスタンユニオン]]の一部となった<ref name="Catania">Catania, Basilio "Antonio Meucci – Questions and Answers: What did Meucci to bring his invention to the public?" ''Chezbasilio.it''. Retrieved: July 8, 2009.</ref><ref name="ADT">[http://www.adt.com/about_adt/company_history#1901 "History of ADT Security."] ''ADT.com'' website. Retrieved: July 8, 2009.</ref>。当時の他の発明と同様、メウッチの業績はそれ以前から知られていた音響に関する原理に基づき、初期の実験の証拠もあったのだが、メウッチが亡くなったため、メウッチに関する訴訟は取り下げられた<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=271–272}}</ref>。下院議員 [[:en:Vito Fossella|Vito Fossella]] の努力により2002年6月11日、[[アメリカ合衆国下院]]は決議案269でメウッチの「電話の発明における業績は認められるべきである」という声明を採択したが、それで議論が終結するわけではない<ref>[http://thomas.loc.gov/cgi-bin/bdquery/z?d107:H.RES.269: "H.RES.269: Resolution 269."] ''thomas.loc.gov.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref>{{#tag:ref|メウッチは最終的な裁判には関係していなかった。|group="注釈"}}<ref>[http://web.archive.org/web/20090422094614/http://www.italianhistorical.org/MeucciStory.htm "Meucci Story."] ''Italian Historical Society.'' Retrieved: July 28, 2010.(2009年4月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。現代の学者の中には、ベルの電話についての業績がメウッチの発明に影響されたことを認めていない者もいる{{#tag:ref|トーマス・ファーリーは、誰もが理解できる明瞭さで音声を伝送したのはベルとワトソンが最初だったというのが学界の一般的見方だとしている。<ref>[http://inventors.about.com/library/inventors/bl_Antonio_Meucci.htm "Antonio Meucci."] ''inventors.about.com''. Retrieved: December 29, 2009.</ref>|group="注釈"}}。
 
ベルの特許の価値は世界中で認められ、多くの国で特許を取得したが、ドイツでは特許出願が遅れた。その間に[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]] (S&H) が電話製造会社を設立して独自の特許を取得した。S&Hは特許料を支払わずにベルのものとほぼ同じ電話機を生産した<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=178}}</ref>。1880年、ベルギーのブリュッセルに{{仮リンク|国際ベル電話会社|en|International Bell Telephone Company}}を創業し、一連の合意をとりつけて世界的電話網の統合を成し遂げた。ベル自身は頻繁に出廷しなければならず、仕事に支障をきたしたので、会社を辞めた<ref>{{Harvnb|Parker|1995|p=23}}</ref>{{#tag:ref|多くの訴訟でグレイとベルは険悪な状態となったが、ベルがグレイを名誉毀損で反訴することはなかった。|group="注釈"}}。