「トルテカ帝国」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
ケッアル→ケツァル |
リンク追加 |
||
4行目:
'''トルテカ帝国'''(トルテカていこく)は、[[メソアメリカ]]([[メキシコ]])に、[[テオティワカン]]崩壊後、[[チチメカ族|チチメカ]]侵入前までに存在したと考えられてきた伝承上の帝国。トルテカ帝国の存立したとされる時期は、年代で言えば7世紀頃〜12世紀頃に当たるが、12世紀とされるチチメカ侵入を11世紀に置く研究者もいる。[[テスカトリポカ]]と[[:en:Ce Acatl Topiltzin|トピルツィン]]と[[ケツァルコアトル]]の伝説などで知られるこの帝国は、メキシコ中央高原を支配したとされた。
トルテカにまつわる伝承の多くにあらわれる「[[トゥラン (メソアメリカ)|トゥラン]]」あるいは「[[トゥーラ]]」が、これらの語が「都市」を表す普通名詞でもあるにもかかわらず、具体的なトゥーラ遺跡のひとつである[[トゥーラ・シココティトラン]]([[イダルゴ州]]トゥーラ。以下、便宜上単に「トゥーラ」と記す)を指すと考え、その実在を主張する説は、研究者の間でも長くあとをたたなかった。その大きな原因をつくったのはメキシコの歴史家として知られるウィグベルト・ヒメネス・モレーノであった。ヒメネス・モレーノは、文献記述中のさまざまな部族の移動ルートを検証し、地理的な記述、王朝の系図を暦関連の記述、ケツァルコアトルに関する伝承を突合し、イダルゴ州トゥーラが伝承上の「トゥーラ」であることをつきとめたが、他の成果については、後述するように複雑な資料操作による矛盾を指摘する研究者もいる。
==ヒメネス・モレーノ説とトルテカ「帝国」伝承==
28行目:
セ・アカトル・トピルツインが[[トゥーラ・シココティトラン|トゥーラ]]を去った年代としては、『[[クアウティトラン年代記]]』などの記述から、誕生から52年のサイクルが一巡<ref>日本の暦の[[干支]]の一巡が60年([[還暦]])で甲子(きのえね)にもどるのが、52年で一巡すると考えれば理解しやすい。cf.[[カレンダー・ラウンド]]</ref>した「一の葦の年」である紀元[[895年]]である<ref>大井2003,p.34</ref>とする。一方、大井の紹介するヒメネス・モレーノ説による年代は紀元[[987年]]である<ref>大井1985,p.191</ref>。
また別の伝承によると、トルテカ族は、ウェイマツイン(「偉大なる手」)と称される神官に率いられて、[[トゥラン (メソアメリカ)|トゥラン]]の地に訪れると、吉なる土地であるということで、6年間かけて、都市が築いたという。トゥランの地は、鳥や獣が多く生息し、肥沃な土地で、果実がよく実ったので、「果実の土地」と呼ばれるようになった。
トルテカの首長たちは、自分たちを治める王について協議し、チャルチウトラトナクという人物を王とした。
紀元994年にウェマク二世がトゥランの王となり、はじめは善政を行っていたものの、次第に横暴になっていった。そのため、謀反や凶兆が頻発し、この状況を利用して呪術師のトウェヨは、催眠効果のある太鼓をならし、街の人々を狂ったように踊らせた後に、断崖に駆け上らせて、自ら崖から転落するようにさせ、「この街は滅びる。」と言うやいなや、トゥランの街を囲む山々が、激しくいっせいに噴火するという出来事がおこった、という。トゥランの長老たちは、神々が怒っているので、赦していただくためにいけにえをささげなければならないと、戦争でつかまえた捕虜をいけにえにしようとした。しかし、いけにえにした捕虜の若者からは、心臓のみならず血の一滴も出ず、かえって、そのいけにえが腐って、街じゅうに疫病がまんえんし、街中の人々が次々に死んでいった、という。
|