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現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、[[1255年]]に'''[[ドイツ騎士団]]'''によって建設され、[[ハンザ同盟]]に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れる'''[[プレゴリャ川|プレーゲル川]]'''(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。ところが住民はポーランド王国を支持してドイツ騎士団と対立、[[1410年]]の[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]]の結果[[第一次トルンの和約]]が交わされ、ケーニヒスベルクをはじめとした[[ドイツ騎士団領]]はすべてポーランド王国の[[従属国]]となる。その後ドイツ騎士団による専制に反発したケーニヒスベルク等の商業都市が[[プロイセン連合]]を結成して騎士団と対立してポーランド王国の庇護を求め、[[1466年]]の[[第二次トルンの和約]]によりケーニヒスベルクはポーランド王の直接の所有物となり、住民による自治権を与えられた。
 
[[ファイル:Königsberg Castle.jpg|200px|left|thumb|19世紀末頃の[[ケーニヒスベルク城]]]]
[[1525年]]にドイツ騎士団の総長だった[[ホーエンツォレルン家]]の[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト]]が修道会国家を世俗化させて[[プロシア公領]]を東プロイセンに成立させケーニヒスベルクはその首都となった。公国の血が絶えると[[1618年]]より同族である[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]]のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。[[1660年]]の[[オリヴァ協定]]でポーランド王国がプロシア公領に対する宗主権を放棄して公領はポーランドから独立、プロイセン公国となり、[[1466年]]より194年の間ポーランド王が保障した自治権によって大いに繁栄していたケーニヒスベルクはその自治権を失ってプロイセン公国に隷属することになった。
 
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=== ソビエト領カリーニングラードへ ===
[[ファイル:ID003306 A211 VordVorstadtg.jpg|250px|left|thumb|第二次大戦前の市街風景]]
[[独ソ戦]]中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部戦線の激しい戦場となった。[[1944年]][[8月26日]]から27日の夜にかけて[[イギリス軍]]の爆撃機174機による長距離爆撃が行われたが、この空襲は郊外に爆弾のほとんどが落ちほぼ失敗に終わった。しかし続く[[8月29日]]から30日にかけてのイギリス軍機189機による空襲では市街地中心部が打撃を受けた。住居と工場の多くが破壊されたほか、クナイプホーフはじめ旧市街の大半、大聖堂はじめ古い教会のほとんど、[[ケーニヒスベルク城]]、大学などは完全に破壊された。
 
[[赤軍|ソ連赤軍]]が[[東プロイセン攻勢|東プロイセンに進撃を始めた]]1944年10月頃からは約37万人にのぼる市民の西部ドイツへの脱出が始まった。[[1945年]][[1月13日]]にはソ連軍がついにケーニヒスベルクに達し1月末には市は完全に包囲されたが、市民や避難民はドイツ軍の確保した鉄道と港湾を使ってバルト海経由でケーニヒスベルクからの脱出を続けた。要塞化された市街の周辺には[[地雷]]や[[鉄条網]]などで三重の防衛線が築かれ、2月から3月の間ドイツ軍は抵抗をつづけた。しかし1945年[[4月6日]]から[[4月9日]]まで、ソ連軍は4日間にわたり南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは陥落した([[ケーニヒスベルクの戦い]])。