「上杉憲房 (戦国時代)」の版間の差分

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{{otheruses|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[山内上杉家]]13代当主|[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[上杉氏]]3代当主|上杉憲房 (南北朝時代) |[[上杉教房]]の子|上杉政藤}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 上杉憲房
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}}
 
'''上杉 憲房'''(うえすぎ のりふさ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[戦国大名|大名]]。[[山内上杉家]]13代当主
 
== 生涯 ==
[[応仁]]元年([[1467年]])、[[上杉憲実]]の子で僧籍にあった[[周清]]の子として誕生。[[はとこ|又従兄弟]]にあたる[[関東管領]]・[[上杉顕定]]の養子となるが、その立場は必ずしも安定しておらず、[[長尾景春の乱]]の最末期には[[長尾景春]]らによって[[山内上杉家]]当主に擁立されていた時期が存在していたことが知られている<ref name=kuroda2011>黒田基樹「上杉憲房と長尾景春」(初出:『千葉史学』58号(2011年)/所収:黒田基樹 編著『戦国期 山内上杉氏の研究』(岩田書院、2013年)ISBN 978-4-87294-786-1) </ref>。また、顕定には実子(庶子)が存在していたとする説もある<ref>森田真一は[[上条定憲]]を顕定の庶子とする説を採る(「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」(『新潟史学』46号(2001年)))。</ref>。そして、決定的であったのは[[永正]]4年([[1507年]])に[[古河公方]]・[[足利成氏]]の次男・[[上杉顕実|顕実]]が顕定の養子になると、顕実は顕定の仮名である「四郎」の名のりが許されて、憲房は後継者から外されて庶流としての地位が確定してしまう。その一方で、顕定-顕実とは別に有力な一軍を率いる存在として各地を転戦することになった<ref name=kuroda2011/>。
 
顕定と共に[[越後国]][[守護代]]・[[長尾為景]]を討つため出陣し、[[上野国]][[白井城]]に駐屯していたが、顕定が[[長森原の戦い]]において戦死すると撤退する。関東管領職は顕定の遺言により顕実が継いでいたが、憲房は顕実と争って勝利し、永正9年([[1512年]])に山内上杉家の家督を継ぎ、永正12年([[1515年]])の顕実の死によって関東管領職をも継いだ<ref>{{Cite Web|url=https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/850/8500/02/0906/0001.tif |title=大日本史料9編6冊1頁(大日本史料総合データベース)|publisher=東京大学史料編纂所|accessdate=2017-07-01}}</ref>([[永正の乱]])。