「徳川家達」の版間の差分

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=== 明治維新後 ===
[[ファイルFile:Kijūrō Shidehara, Tomosaburō Katō and Iesato Tokugawa.jpg|thumb|250px|ワシントン軍縮会議前の全権大使、左から[[幣原喜重郎]]・[[加藤友三郎]]・徳川家達]]
[[File:Sculpture of Itagaki Taisuke near Nikkobashi Bridge.jpg|250px|thumb|[[日光東照宮]]の[[板垣退助]]像。銅像題字の揮毫は徳川家達による]]
[[File:Tokugawa Iesato LC-USZ62-122291.gif|thumb|120px|晩年の家達]]
 
明治10年([[1877年]])、[[イギリス]]の[[イートン・カレッジ]]に留学。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。[[オックスフォード大学]]か[[ケンブリッジ大学]]への進学を目指していたが、婚儀を心待ちにしていた[[天璋院]]の意向もあって、明治15年([[1882年]])10月に帰国した。翌11月6日に[[徳川泰子|近衛泰子]]と結婚、明治17年([[1884年]])に嫡男[[徳川家正|家正]]が誕生する。
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==人物==
* 生母の武子は[[田安徳川家]]家臣の津田栄七の長女で、高井主水の養女となった。武子の実妹の初子が[[津田梅子]]の母親であるため、家達と梅子は従兄妹にあたる。
[[ファイルFile:Tokugawa Iesato 1927.jpg|thumb|250px|東京大相撲大阪場所を観戦、中央が家達]]
[[File:Tokugawa Iesato LC-USZ62-122291.gif|thumb|120px250px|晩年の家達]]
* 家達の近習を務めた洋画家の[[川村清雄]]によると、家達は生来おとなしかった。幼少で静岡に移住し、[[静岡浅間神社|浅間神社]]の[[神主]]宅に移り住むことになるなど周囲の環境が激変しても、泣いた所は見たことはなかったという<ref>川村清雄談「慶喜公と亀之助様」『漫談 江戸は過ぎる』(萬里閣書房、1929年、所収)。後に『史話 江戸は過ぎる』([[新人物往来社]]、1969年)の名で復刊。清雄の談話部分は『静岡の美術Ⅶ 川村清雄展』図録([[静岡県立美術館]]、1994年)にも収録151-152頁。</ref>。
* 趣味の[[囲碁]]はアマチュア・トップクラスで、大正15年([[1926年]])に[[喜多文子]]五段に「二子のハンディ」の対局で勝利した棋譜が残されている。