「根来寺」の版間の差分

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生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、[[天正]]13年([[1585年]])、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。焼け残った大伝法堂は秀吉が信長の廟所として[[京都市|京都]]の[[船岡山]]に建立する予定であった[[天正寺]]の本堂にする為に解体して持ち去っていった。しかし、天正寺は建立されず、部材は[[大阪市|大坂]]の[[淀川|中津川]]沿いに持ってきたまま放置された。現在の大阪市[[此花区]]伝法である。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で徳川方が勝利した翌年、家康は[[東山区|東山]]の[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]の付属寺院の土地建物を根来寺の僧で焼き討ちされた塔頭[[智積院]]の住職であった玄宥に与え、智積院は東山の地に再興した。慶長20年([[1615年]])の[[大坂の陣]]で豊臣家が滅びた後、家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲寺が根来寺に寄進されるが、そのまま智積院が譲り受けて寺地を拡大させた。
 
[[江戸時代]]には[[紀州徳川家]]の庇護のもと主要な伽藍も復興され、また、[[東山天皇]]より覚鑁上人に「興教大師」の[[大師号]]が下賜された。