「東照宮」の版間の差分

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== 宣命 ==
=== 贈東照大権現 ===
{{quotation|天皇我詔旨良萬止、故柳營大相國源朝臣爾詔倍止、敕命乎聞食止宣、振威風於異邦之域比、施寬仁於率土之閒須、行善敦而德顯留、身旣沒而名存勢利、崇其靈氐、東關乃奧域爾大宮柱廣敷立氐、吉日良辰乎撰定氐、東照乃大權現止上給比治賜布、此狀乎平介久安介久聞食氐、靈驗新爾天皇朝廷乎寳位無動久、常磐堅磐爾夜守日守爾、護幸給比氐、天下昇平爾、海內海内靜謐爾、護恤賜倍度、恐美恐美毛申賜者久止申 元和三年二月廿一日|日光東照宮文書}}
 
::{{smaller|天皇(すめら=[[後水尾天皇]]<!-- 22歳-->)が詔旨(おほみこと)らまと、故柳営大相国(もとのりうえいだいそうこく)源朝臣<!--(徳川家康)-->に詔(のら)へと、勅命(おほみこと)を聞食(きこしめせ)と宣(のたま)ふ、威風を異邦(とつくに)の域(さかひ)に振(ふる)ひ、寛仁を率土の間に施す、善を行ふこと敦(あつ)くして徳顕(あらは)る、身既に没(みまか)りて名存せり、其の霊(みたま)を崇(たふと)びて東関(あづまのくに)の奥域(おくつき)に大宮柱(おほみやはしら)広敷立(ひろしきた)て、吉日良辰(よきひのよきとき)を択(えら)び定めて、東照の大権現と上(のぼ)せ給ひ治め賜ふ、此の状(さま)を平(たいら)けく安(やすら)けく聞食(きこしめ)して、霊験(みしるし)新たに天皇(すめら)が朝廷(みかど)を宝位(あまつひつぎ)動くこと無く、常磐(ときは)に堅磐(かきは)に夜守日守(よのまもりひのまもり)に、護(まもり)幸(さきは)ひ給ひて、天下昇平(あめがしたむくさか)に、海内静謐(くぬちおだひ)に、護(まもり)恤(めぐみ)賜へと、恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申す 元和三年(1617年)二月二十一日}}
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=== 宮号宣下 ===
{{quotation|天皇我詔旨度、掛畏岐日光乃東照大權現乃廣前爾恐美恐美毛申賜&#xFA5B;久止申左久、元和三年勸請世留良辰爾奉授正一位禮留以降、&#xFA45;內海内安全爾之氐、年序毛積禮利、殊朕以薄德氐天之日嗣尾承傳給布、又武運毛延長爾之氐、子孫相&#x7E8C;之、公武繁榮奈留&#xFA5B;、偏是權現之廣御惠美、厚御助奈利、故是有所念行事氐、今改&#xFA4C;氐宮止崇奉留、吉日良辰乎撰定氐、正二位行前大納言兼前右近衞大將藤原朝臣經季乎差使氐、古御位記乎改氐、令捧持氐、奉出給布、權現此&#x72C0;乎平久安久聞食氐、天皇朝廷乎寳祚無動久、常磐堅磐爾、夜守日守爾、護幸賜比氐、一天安穏爾萬國豐稔爾、護恤賜倍度、恐美恐美毛申賜&#xFA5B;久止申 正保二年十一月三日|日光東照宮文書}}
 
::{{smaller|天皇(すめら=[[後光明天皇]]<!-- 13歳-->)が詔旨(おほみこと)らまと、掛けまくも畏(かしこ)き日光の東照大権現の広前(ひろまへ)に恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申さく、元和三年勧請(くわんじやう)せる良辰(よきとき)に正一位(おほいひとつのくらゐ)を授げ奉(たてまつ)れるより以降(このかた)、海内安全(くぬちおだひ)にして年序(としつき)も積もれり、殊(こと)に朕薄徳を以(も)て天之日嗣(あまつひつぎ)を承(う)け伝へ給ふ、又武運も延長にして、子孫相続(うみのこのつづき)し、公武繁栄なるは、偏(ひとへ)に是(これ)権現の広き御恵(おんめぐみ)、厚き御助(おんあなない)なり、故是(かれここ)に所念行(おもほす)の事有りて、今、社を改めて宮と崇(たふと)み奉(まつ)る、吉日良辰(よきひのよきとき)を択び定めて、正二位(おほいふたつのくらゐ)行(ぎやう)前大納言(さきのおほいものまうすつかさ)兼(かねて)前右近衛大将(さきのみぎのちかきまもりのつかさのかみ)藤原朝臣経季(=[[今出川経季]]<!-- 52歳 正二位 武家伝奏-->)を差し使はして、古き御位記を改めて捧げ持たしめて、出(いだ)し奉(たてまつ)り給ふ、権現此の状(さま)を平(たひらけ)く安(やすらけ)く聞食(きこしめし)て、天皇(すめら)が朝廷(みかど)を宝祚(あまつひつぎ)動き無く、常磐堅磐(ときはかきは)に夜守日守(よのまもりひのまもり)に護幸(まもりさきは)に賜ひて一天安穏(あめのしたおだひ)に万国豊稔(よろづみのりゆたか)に護(まも)り恤(めぐ)み給へと、恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申す 正保二年(1645年)十一月三日}}