「イヴァン・ヴァゾフ」の版間の差分

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=== ルーマニアへ ===
1870年にイヴァンは見習いとして商業を学ぶため、[[ルーマニア]]南部の[[オルテニツァ]]の商人である叔父のところへ父が送った。けれども彼は商業に興味がなかった。彼は[[ルーマニア語]]やルーマニア文学を学び、[[ミハイル・コガルニチャセアヌ]]、[[ヴァシレ・アレクサンドリ]]、[[ニコラエ・バレスク]]、その他多くの人物の革命思想を研究する。彼は書物により関心が高まったがためルーマニア東部の[[ブライラ]]に向かう、同年、中心的なブルガリア人亡命コミュニティに参加する。彼はストランジャにあるブルガリアの独立活動家の集会所のひとつだったニコラの宿屋でしばらくの間、住んでいた。そこでは決定的にヴァゾフに対して革命や自主独立の思想について影響を与えたフリスト・ボテフと出会った。ヴァゾフはルーマニア東部のブライラや[[ガラツィ]]で[[内部革命組織]]やブルガリア革命中央委員会(BRZK)の会合に参加する<ref>[[:en:Internal Revolutionary Organisation|Innere Revolutionäre Organisation in der englischen Wikipedia]]</ref>。苦しい生活の中、愛国組織の会議は青年詩人イヴァン・ヴァゾフにさし響き、彼の文学作に深い影響を残した。以後、『解放戦士』 (ブルガリア語 ''Хъшове; Haschowe'')、『ネミリ-ネドラギ』 (ブルガリア語 ''Немили-недраги'')といった小説等、複数の作品を発表する。最初に出版された詩集『闘争』 (ブルガリア語 ''Борба, ‚Kampf''‘)は亡命雑誌『ブルガリア文学社会誌』 (ブルガリア語 Периодическо списание на Браилското книжовно дружество)で1870年に発表する。彼は愛国詩を新聞『祖国』 (ブルガリア語. Отечество)、新聞『独立』 (bulg. Свобода)、雑誌『集い』 (bulg. Читалище)にそれぞれ掲載する。
 
1873年から1872年にかけて、一旦、ブルガリアに戻ったイヴァン・ヴァゾフは[[オスマン帝国]]の支配下にあった町スビレングラートで教師として働いた。彼は翌年にソフィア-キュステンジル間の鉄道の線路建設で通訳者として働き、ブルガリア南東部にあるムスタファ・パシャ(現在の地名はスヴィレングラード)で貧しいブルガリア農民の生活を目のあたりにした。彼は1875年に故郷へ戻り、同年、内部革命組織の下部組織としてソポト革命委員会の結成に参加、オスマントルコ帝国と戦った。
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