「ジョージ・スティーヴンス」の版間の差分

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渚月 (会話 | 投稿記録)
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[[1933年]]に念願の監督デビューを果たす。[[1935年]]、[[キャサリン・ヘプバーン]]主演の『乙女よ嘆くな』がアカデミー作品賞にノミネートされ、出世作なる。以降は[[フレッド・アステア]]と[[ジンジャー・ロジャース]]の名コンビを配した『有頂天時代』、キャサリン・ヘプバーンと[[スペンサー・トレイシー]]が最初に共演した『女性No.1』、[[ケーリー・グラント]]主演で冒険活劇『ガンガ・ディン』や人情喜劇『愛のアルバム』などジャンルを問わず娯楽作を世に送り出し、いずれも大ヒットした。また1942年の『希望の降る町』と1943年の『The More the Merrier』でアカデミー作品賞に連続でノミネートされた。
 
戦前は娯楽映画を中心に撮ったが、[[第2次世界大戦]]中[[アメリカ陸軍]]の映画斑に所属して戦意高揚映画の製作にあたった。[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]では連合軍の進撃に随行し、なかでも[[ダッハウ強制収容所]]では解放直後から現場の記録撮影に従事し、[[ニュルンベルク裁判]]ではそのフィルムで制作された映画が証拠として上映された。

凄惨な戦争を実体験したことから、戦後は人間の内面を描いた作風に変わる。[[1948年]]の『ママの想い出』を皮切りに、[[1951年]]に[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]監督の『[[アメリカの悲劇]]』のリメイク『陽のあたる場所』でアメリカの上流社会を夢見る若者の悲劇を描き、見事[[アカデミー監督賞]]を受賞。続いて[[1953年]]、西部劇の名作『[[シェーン]]』で少年の視点を通して西部に生きる開拓者とガンマンの交流を描き出した。
 
そして[[1955年]]、壮大な家族ドラマで[[ジェームズ・ディーン]]の遺作となった『ジャイアンツ』でその名声を決定的なものにした。本作では2度目のアカデミー監督賞を受賞、アメリカの家庭劇を中心に描いたことから、'''ドメスティック・リアリズムの巨匠'''と称された。映画作りに関しては常に完璧主義者で、その作風は一つ一つのシーンやショットに画面の美しさと伏線的な効果を求めた為に、納得するまで何度もテイクを重ねることになり、ある時にはワン・シーンを撮るのに数ヶ月かかることがあったという。その為、会社上層部とは常に険悪な仲だったという。