「パッツィ家の陰謀」の版間の差分

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'''パッツィ家の陰謀'''(パッツィけのいんぼう、{{lang-it|Congiura dei Pazzi}})は、[[1478年]]、[[フィレンツェ]]の[[パッツィ家]](Pazzi)がライバルである[[メディチ家]]当主の[[ロレンツォ・デ・メディチ]]らを[[暗殺]]しようとした[[事件]]
 
 
== 背景 ==
[[教皇]][[シクストゥス4世_(ローマ教皇)|シクストゥス4世]](在位1471:1471 - 1484年)がフィレンツェに近い要所である[[イーモラ]]を買収したことなどから、フィレンツェの実質的な支配者ロレンツォの政策と対立するようになった。シクストゥスは[[教皇庁]]の[[金融]]を担当していたメディチ銀行の地位を奪い、ライバルで同じフィレンツェに本拠を置くパッツィ銀行に委譲、これにより[[メディチ家]]と[[パッツィ家]]の対立が激化した。その後、パッツィ一派のフランチェスコ・サルヴィアーティが[[ピサ]][[大司教]]に任命されたが、今度はロレンツォは赴任を妨害した。ここに至ってパッツィ家はロレンツォを亡き者にしようと陰謀をめぐらせた。この計画はローマ教皇もある程度知っていた(黙認していた)と言われる
 
ここに至ってパッツィ家はロレンツォを亡き者にしようと[[陰謀]]をめぐらせた。この計画はローマ教皇もある程度知っていた(黙認していた)と言われる。
 
== 陰謀と収束 ==
陰謀は1478年[[4月26日]]、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]での[[ミサ]]の席上、実行された。サルヴィアーティ(ピサ大司教)とフランチェスコ・デ・パッツィ(パッツィ銀行ローマ支店長)らがメディチ兄弟を襲撃、ロレンツォの弟の[[ジュリアーノ・デ・メディチ|ジュリアーノ]]を殺害する。ロレンツォは傷を負うが、かろうじて難を逃れた。暗殺者らは[[市民]]にメディチ家への反乱を呼びかけるも失敗捕らえられて即刻[[処刑]]された。パッツィ家関係者らへの報復は容赦のいもので、パッツィ家当主をはじめ100人近くが捕らえられて処刑された。
 
この事態にパッツィ家と結んでいた教皇シクストゥス4世は激怒し、フィレンツェを[[破門]]し、[[ナポリ王国]]と[[同盟]]して[[宣戦布告]]した('''パッツィ戦争''')。ロレンツォは大きな危機に直面したが、自ら[[ナポリ]]に乗り込み、ナポリ王[[フェルディナンド1世 (ナポリ王)|フェルディナンド1世]]と会見を行った。この勇気にナポリ王も感心し、和平を結ぶことに成功した
 
その後もしばらく不穏な状況があったが、[[1484年]]に問題の一端を担った教皇シクストゥス4世が薨去したため、事態は収束に向かった。最大の危機を乗り切ったロレンツォの支配体制は、この後、確固たるものとなった。
 
== その他 ==
陰謀に加担したパッツィ家の処刑の様子を、[[1478年]]に[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]が、フィレンツェの警察署と市庁舎の間の壁に[[フレスコ画]]で描いたが、[[1494年]]メディチ家のフィレンツェ追放と共に破壊された。芸術[[ミステリー]]を数多く執筆しているミステリー推理作家の[[深水黎一郎]]はこの絵を「残っていて欲しかった名画ベスト3・西洋篇」の第2位に挙げている<ref>[[講談社]][[群像]]』2012年10月号</ref>
 
[[File:Retrato de Bernardo di Bandino Baroncelli executado.jpg|thumb|100px|ダ・ヴィンチによる{{仮リンク|ベルナルド・バンディーニ|it|Bernardo Bandini}}処刑のスケッチ (1479年)]]
また関係者ベルナルドが[[コンスタンティノープル]]に逃れていたところを捕らえられ、[[1479年]][[12月]]に絞首刑に処されたが、この模様を[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]がスケッチに残し、こちらは現存している。
 
なお、のちの教皇[[クレメンス7世_(ローマ教皇)|クレメンス7世]]はパッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノ・デ・メディチの遺児である。
 
ジュリアーノの遺骸は後に発掘された。全身腐敗していたが、遺骨の鑑定の結果頭部に大きな損傷を受けていたことが確認されている。
 
[[2004年]]になって、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の研究者マルチェロ・シモネッタがパッツィ家の関係者などが残した暗号文書を解読し、[[ウルビーノ]]公[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]が事件の首謀者であるとする説を唱えた。
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== 参考文献 ==
マルチェロ・シモネッタ『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺:中世イタリア史を覆す「モンテフェルトロの陰謀」』(熊井ひろ美訳)、早川書房、2009年(ISBN 978-4-15-209006-5)
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
*[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]] - パッツィという名の刑事が殺害される際に、ダ・ヴィンチによるベルナルドの処刑画が印象的な小道具として使われている。
*[[メディチ家]]
*[[暗殺]]
*[[陰謀]]、[[陰謀論]]
*[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]] - パッツィという名の刑事が殺害される際に、ダ・ヴィンチによるベルナルドの処刑画が印象的な小道具として使われている。
*[[アサシンクリード2]] - 当時のフィレンツェなどを舞台にしているためゲーム中にメディチ家側に肩入れするシーンが登場する。
 
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[[Category:暗殺未遂]]
[[Category:イタリアの事件]]
[[Category:イタリアの歴史]]
[[Category:フィレンツェの歴史]]
[[Category:1478年のイタリア]]
[[Category:中世のイタリア]]
[[Category:イタリア教皇権の歴史]]
*[[Category:メディチ家]]