「パッツィ家の陰謀」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
cat調整 |
編集の要約なし |
||
1行目:
'''パッツィ家の陰謀'''(パッツィけのいんぼう、{{lang-it|Congiura dei Pazzi}})は、[[1478年]]、[[フィレンツェ]]の[[パッツィ家]]
== 背景 ==
[[教皇]][[シクストゥス4世_(ローマ教皇)|シクストゥス4世]](在位
== 陰謀と収束 ==
陰謀は1478年[[4月26日]]、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]での[[ミサ]]の席上、実行された。サルヴィアーティ(ピサ大司教)とフランチェスコ・デ・パッツィ(パッツィ銀行ローマ支店長)らがメディチ兄弟を襲撃、ロレンツォの弟の[[ジュリアーノ・デ・メディチ|ジュリアーノ]]を殺害する。ロレンツォは傷を負うが、かろうじて難を逃れた。暗殺者らは
この事態に、パッツィ家と結んでいた教皇シクストゥス4世は激怒し、フィレンツェを[[破門]]し、[[ナポリ王国]]と
その後もしばらく不穏な状況があったが、[[1484年]]に問題の一端を担った教皇シクストゥス4世が薨去したため、事態は収束に向かった。最大の危機を乗り切ったロレンツォの支配体制は、この後、確固たるものとなった。
== その他 ==
陰謀に加担したパッツィ家の処刑の様子を、[[1478年]]に[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]が、フィレンツェの警察署と市庁舎の間の壁に[[フレスコ画]]で描いたが、[[1494年]]にメディチ家のフィレンツェ追放と共に破壊された。芸術
[[File:Retrato de Bernardo di Bandino Baroncelli executado.jpg|thumb|100px|ダ・ヴィンチによる{{仮リンク|ベルナルド・バンディーニ|it|Bernardo Bandini}}処刑のスケッチ (1479年)]]
また、関係者ベルナルドが[[コンスタンティノープル]]に逃れていたところを捕らえられ、[[1479年]][[12月]]に絞首刑に処されたが、この模様を[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]がスケッチに残し、こちらは現存している。
ジュリアーノの遺骸は後に発掘された。全身腐敗していたが、遺骨の鑑定の結果、頭部に大きな損傷を受けていたことが確認されている。
[[2004年]]になって、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の研究者マルチェロ・シモネッタがパッツィ家の関係者などが残した暗号文書を解読し、[[ウルビーノ]]公[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]が事件の首謀者であるとする説を唱えた。
28 ⟶ 24行目:
== 参考文献 ==
マルチェロ・シモネッタ『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺:中世イタリア史を覆す「モンテフェルトロの陰謀」』(熊井ひろ美訳)、早川書房、2009年(ISBN 978-4-15-209006-5)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[メディチ家]]▼
▲*[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]] - パッツィという名の刑事が殺害される際に、ダ・ヴィンチによるベルナルドの処刑画が印象的な小道具として使われている。
*[[アサシンクリード2]] - 当時のフィレンツェなどを舞台にしているためゲーム中にメディチ家側に肩入れするシーンが登場する。
40 ⟶ 36行目:
[[Category:暗殺未遂]]
[[Category:イタリアの事件]]
[[Category:イタリアの歴史]]▼
[[Category:フィレンツェの歴史]]
[[Category:1478年のイタリア]]
[[Category:中世のイタリア]]
|