「戸田氏定」の版間の差分

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1657年3月30日生まれ。[[寛文]]11年([[1671年]])12月28日に従五位下采女正に叙任。[[貞享]]元年([[1684年]])6月7日父氏西の死没したため、8月に家督を継いだ。[[元禄]]元年([[1688年]])7月10日に弟[[戸田氏成|氏成]]に新田3000石を分知した。氏成の養父・[[戸田氏利]]の所領を合わせて1万石を超え、大名となり、分家の支藩(三河畑ヶ村藩([[大垣新田藩]])が誕生した。[[元禄]]7年([[1694年]])3月27日、飛騨国が[[高山藩]]主金森氏移封ののち幕領となったため、幕府より戸田が[[飛騨国]]検地総奉行に任じられた。
 
[[元禄]]14年([[1701年]])3月14日、母方の従兄弟にあたる[[浅野長矩]]が[[吉良義央]]に刃傷に及ぶ。実弟[[浅野長広]]は閉門となり、戸田や[[安部信峯]]ら従兄弟の大名達も連座して出仕を止められた。その後、[[赤穂城]]収城を前に浅野家筆頭家老[[大石内蔵助]]は、「我が藩は無骨な家臣どもばかりなので、上野介様への処断がはっきりしないと開城を納得させられない」といった暗に吉良へのお仕置きを求める嘆願書を月岡治右衛門と多川九左衛門を使者にして幕府収城目付の[[荒木政羽|荒木十左衛門政羽]]と[[榊原政殊|榊原采女政殊]]に出そうとした。しかし月岡と多川は収城目付と行き違いになったまま、江戸へ到着。内蔵助の「江戸家老には見せるな」という命令に背いて江戸家老[[安井彦右衛門]]にこれを相談してしまう。案の定、安井はすぐさま戸田にこれを報告。驚いた戸田は「開城こそが公儀を重んじた内匠の意思のはず」といった内容の書を月岡と多川に渡して内蔵助に届けさせた。こうして嘆願は失敗に終わる。
 
しかし結局、その後、赤穂藩内の論争はお家再興・かたき討ちを前提とした開城でまとまったため、赤穂城は無血で開城された。その後は戸田も浅野家再興のために尽力し、[[元禄]]14年([[1701年]])7月には[[大石内蔵助]]・[[小野寺十内]]らを大垣に招いて浅野家再興について議した。しかし功を奏さず、[[元禄]]15年([[1702年]])7月18日、浅野内匠頭の弟の浅野大学長広は広島藩お預かりとなり、事実上浅野家再興の可能性はなくなった。その後、大石内蔵助らは[[吉良上野介]]への仇討ち計画をいよいよ本格化させ、年末には上野介の首をあげて[[泉岳寺]]の長矩の墓前に捧げた後に切腹となった。
 
戸田自身は、その後、平穏で特に何もない人生を送り、[[享保]]8年([[1723年]])4月に嫡子氏長に家督を譲って隠居し、[[享保]]18年([[1733年]])7月23日に死去。享年77歳。駒込蓮光寺に葬られた。法名は霊台院瑞誉松厳大居士。
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[[Category:譜代大名|とたうしさた]]
[[Category:戸田氏|うしさた]]
[[Category:元禄赤穂事件|とたうしさた]]
{{生没年|とたうしさた|1657年|1733年}}