「世界真光文明教団」の版間の差分

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[[File:主晃一大神宮 2014 - flickr.jpg|thumb|主晃一大神宮のインテリア]]
{{see also|真光系諸教団#真光裁判|崇教真光}}
陸軍の元軍人で実業家であった[[岡田光玉]]が、[[1959年]]58歳の時に5日観光熱にうなされ、[[2月27日]]に神の啓示を受けたという<ref>[[#島田(2007)|島田(2007)]],pp.155-156.</ref>。「主の神」から「魁のメシア」という役目を与えられたと考えた岡田は、実業家の仕事を続けながら「L・H陽光子乃友」を立教し、宗教活動も行った<ref name=numata>[[沼田健哉]]「現代日本における新宗教の諸相 : カリスマを中心として」桃山学院大学社会学論集 19(1), 1-30, 1985-10-30, 桃山学院大学</ref><ref>[[#島田(2007)|島田(2007)]],pp.155-156.</ref>。1963年に教団名を「世界真光文明教団」に改めた。初代教祖(教え主)の岡田は一時手かざし(浄霊)を行う[[世界救世教]]の有力信徒であり、[[手かざし]]を含め、二つの教団の教理、儀礼には共通点が多いと指摘されている<ref name=numata/>。ただし、教会ごと脱退したわけではないので分派とはされていない。真光は次第に信者を増やしたが、宗教学者の[[島田裕巳]]は「その教えがシンプルで、教義や戒律をほとんど問題にしないことが広く受け入れられた原因だった」と評している<ref>[[#島田(2007)|島田(2007)]],pp.155-156.</ref>。
 
[[1974年]][[6月23日]]に岡田光玉は死去し、後継者をめぐって養女の岡田恵珠派と幹部信者の一人だった[[関口榮]]派に分裂、裁判になり、[[1978年]]に[[最高裁判所]]は生前の指名によるという関口の主張を認め、関口が二代目教主に就任<ref name=Staemmler>Birgit Staemmler 「真光」クリストファー・パートリッジ『現在世界宗教事典』 井上順孝 監訳、 井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳、悠書館、2009年</ref><ref>『真光』誌昭和49年9月号</ref>、恵珠は同年に[[崇教真光]]を創設した<ref name=numata/>。世界真光文明教団と崇教真光の教義・儀礼の大きな差はない<ref name=numata/>。世界真光文明教団は、現在は関口榮の息子の[[関口勝利]]が三代目を継承している。