「瀬棚郡」の版間の差分

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[[江戸時代]]、瀬棚郡域は[[和人地]]となる。[[松前藩]]によってセタナイ[[場所]]が開かれていた。
 
陸上交通は、[[渡島国]]から[[天塩国]][[増毛郡]]への道のりの途上であったが、北の[[島牧郡]]へは[[狩場山]]・茂津多岬が難所となって陸路が途絶えて舟に頼っており、安政年間に[[檜山郡|江差]]の商人鈴鹿甚右衛門と[[津軽郡 (北海道)|津軽]]の商人松前屋庄兵衛らが私費を投じ須築(現在の久遠郡せたな町)からコタニシ(現在の島牧郡島牧村原歌のあたり)に至る狩場山道([[国道229号]]の前身)を開削し通年の陸路での移動を可能とした。
 
[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]の[[文化 (元号)|文化]]4年には瀬棚郡域は[[天領]]とされたが、[[文政]]4年には松前藩の元に戻された。また、郡域内(旧瀬棚町)の[[事比羅神社]]は[[天保]]9年よりも前の創建である。[[安政]]2年再び天領となり[[津軽藩]]が警固をおこなった。[[戊辰戦争]]([[箱館戦争]])終結直後の[[1869年]]、[[大宝律令]]の[[国郡里制]]を踏襲し瀬棚郡が置かれた。