「エリーザベト・フォン・ケルンテン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = エリーザベト・フォン・ケルンテン
| 人名 = バルバラ・ツェリスカ
| 各国語表記 = BarbaraElisabeth Celjskavon Kärnten
| 家名・爵位 = ドイツ王妃<br>オーストリア公妃
| 画像 = Elisabeth Tirol.jpg
25行目:
| サイン =
}}
[[ファイル:Innsbruck 1 243.jpg|thumb|[[インスブルック]]の宮廷教会 ([[:de:Hofkirche (Innsbruck)|Hofkirche]]) に置かれたエリーザベトのブロンズ像]]
'''エリーザベト・フォン・ケルンテンゲルツ・ウント・ティロル'''('''Elisabeth(Elisabeth von Kärnten, Görz und Tirol''', [[1262年]]頃 - [[1313年]][[10月28日]])は、[[オーストリア公国|オーストリア公]]および[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]公[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]の妻。夫が[[1298年]]に[[ローマ王|ドイツ王]]に選出されると、ドイツ王妃となった。
 
== 生涯 ==
[[ケルンテン公国|ケルンテン公]][[マインハルト (ケルンテン公)|マインハルト(2世)]]と、その妻で[[バイエルン|バイエルン]]兼[[ライン宮中伯]][[オットー2世 (バイエルン公)|オットー2世]]の娘である[[エリーザベト・フォン・バイエルン (1227-1273)|エリーザベト]]の間の次女として生まれた。[[1276年]]、[[ハプスブルク家]]のドイツ王[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]の長男であるオーストリア公アルブレヒトと結婚した。
 
エリーザベトは賢く、領主としての経営手腕にすぐれた女性で、商才に長けていた。[[ザルツカンマーグート]]に[[塩田]]が建設されたのはエリーザベトの発案だったと言われる。[[1299年]]、[[ニュルンベルク]]において[[ローマ王|ローマ王妃]]およびドイツ王妃として戴冠した。
 
夫のアルブレヒト1世は[[1308年]][[5月1日]]、[[アーレ川]]沿いの[[ブルク (スイスの都市)|ブルク]]において、ラインフェルト協定([[:de:Rheinfelder Hausordnung|Rheinfelder Hausordnung]])に基づく財産分与が実現されないことに怒った甥の[[ヨハン・パリツィーダ]]の手にかかって[[暗殺]]された。夫の頓死に居合わせたエリーザベトは、そのままその地に残り、ブルク郊外に[[ケーニヒスフェルデン修道院]]([[:de:Königsfelden|Königsfelden]])を建設し、死後その修道院に埋葬された。
59行目:
{{DEFAULTSORT:えりさへと けるんてん}}
[[Category:神聖ローマ皇后]]
[[Category:オーストリアの后妃]]
[[Category:ゲルツ家]]
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:13世紀生]]
[[Category:1313年没]]
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]