「ギリシャ・イタリア戦争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
31行目:
 
===英軍と独軍の参戦===
戦争を楽観視していたムッソリーニはここで考えを改め、司令官の罷免と軍の増派を決定する。かくしてギリシャ軍とその地形を過小評価していたヴィスコンティ・プラスカ将軍は罷免され、新たに[[ウバルド・ソッドゥ]]将軍が指揮官に着任。戦力面では本国から6個師団の投入が決定するものの、戦局りど好転せず、ギリシャ軍にアルバニアへ師団も定員割れと装備不足逆侵攻起こしてい許す有様だった。とはいえ20万人に増派されたイタア軍は窮地から立ち直り、シャ争の泥沼化の責任取っ直し[[ピエトロ・バドリオ]]元帥が罷免される。代わっ[[ウーゴ・カヴァッレーロ]]将を再開が参謀総長に就任始めるた後も戦争継続の意志は変わらず、国境地帯で激しい山岳戦が繰り広げられた
 
しかしイタリア軍が戦力補充を行った直後、6万名からなる派遣軍と軍需物資の数々を積載したイギリス軍の輸送艦隊がギリシャに来援する。再び戦力で上回った連合軍の前にイタリア陸軍はアルバニアとギリシャの国境線まで後退を余儀なくされしまい、ギリシャ戦争の泥沼化の責任を取って[[ピエトロ・バドリオ]]元帥が罷免される。代わって[[ウーゴ・カヴァッレーロ]]将軍が参謀総長に就任した後も戦争継続の意志は変わらず、国境地帯で激しい山岳戦が繰り広げられた。
 
一方その頃、同じバルカン半島の国である[[ブルガリア]]と[[ユーゴスラビア]]が枢軸側に立って参戦、ドイツ軍がブルガリアへの進駐を開始していたが、枢軸側参戦から数日後にユーゴズラビアで親英派のシモヴィッチ将軍によるクーデターが決行され、同国は連合国側に寝返ってしまった。[[アドルフ・ヒトラー]]は不安定化したユーゴズラビアへの介入を決断、対ソ戦を延期して[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアへ南下する]]。ムッソリーニはヒトラーの要請に応じて軍部隊をユーゴズラビアへ派遣(これらの伊軍部隊はその後二次大戦終戦まで[[チトー]]の[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]討伐に明け暮れる事になる)し、またドイツ軍もギリシャ戦線へ3個軍団を援軍として投入。既に本土から新たに数個師団の増援を得ていたイタリア軍はドイツ軍と共に攻勢に転じ、挟撃されたギリシャ軍は総崩れになる。4月23日、ギリシャ政府はイタリア政府に降伏を申し入れ、これをイタリア側が受領した事で戦争は終結した。