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==概要==
[[順帝 (漢)|順帝]]の太傅となる[[桓焉]]に師事した。初め、父の官位によって太子人となったが、病を称して就かなかった。父が死去し、喪が終わると五府<ref>太傅、大将軍、三公の府</ref>から招聘され、[[順帝 (漢)|順帝]]の[[永建 (漢)|永建]]年間には皇帝の徴召を受けたがやはり応じなかった。これが不敬であるとの弾劾され、また[[李固]]の説得によってついに洛陽に至り、議郎に任じられた。
 
しばらくして尚書僕射に転任した。官房のことに習熟し、朝議で論争して対抗できる者はいなかった。当時災異が続いたため、漢初からの災異の記録を参照して政事を改めるよう上疏した。また、順帝の即位以来行われなかった籍田の礼を再開するようにも求めた。尚書令に昇進し、のちに魏郡太守を経て[[太常]]となった。
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