「ヤムナ文化」の版間の差分

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このことは、本来は[[ケントゥム語]]で、かつ縄目文土器文化や球状アンフォラ文化を基層<ref>もともと[[球状アンフォラ文化]]は[[スラヴ]]・[[バルト]]・[[ゲルマン]]の3つの語派の、後期インド・ヨーロッパ祖語時代における基層文化であったと考えられる(J. P. Mallory, "Globular Amphora Culture", Encyclopedia of Indo-European Culture, Fitzroy Dearborn, 1997.)。この祖語は[[インド・ヨーロッパ祖語]]の北西方言で、現在でも3つの語派に共通する文法的特徴にその名残がみられる([[与格]]と[[奪格]]の[[複数形]]のほか、[[単数形]]と[[双数形]]のいくつかで、*-bh-でなく-m-を用いた[[語尾]]となる)。この祖語はこの記事で扱っている時代にはまだ共通祖語だった可能性があり、あるいは既にある程度それぞれに分化していた可能性もある。球状アンフォラ文化がその西隣と東隣にあった非インド・ヨーロッパ語族の文化圏に影響し、その結果[[中央ヨーロッパ]]から[[東ヨーロッパ]]にかけての広大な地域に[[戦斧文化|縄目文土器文化]]が形成されていく。</ref>としていたと推測される[[スラヴ語派]]や[[バルト語派]]の祖語<ref>[[スラヴ祖語]]と[[バルト祖語]]、ないし学説によっては{{仮リンク|バルト・スラヴ祖語|en|Proto-Balto-Slavic language}}。ただし後者であってもこの時代には既にスラヴ祖語とバルト祖語に分化していたことも考えうる。</ref>が東方の[[インド・イラン語派]]の言語的影響を受けて[[サテム語派|サテム語へと変化]]していった経緯を示唆している。ここではヤムナ文化はインド・イラン語派の文化ではあるがその語派の起源ということではなく、[[中央アジア]]の[[ステップ]]地帯で政治的な力をつけたインド・イラン語派の担い手の集団が次々と西方へ進出して落ち着いた先である[[東ヨーロッパ]]のステップ地帯に広く発展したステップ文化であるということになる。ここではクルガン仮説の問題点とされていたものは解消され、球状アンフォラ文化とともにヤムナ文化が後期インド・ヨーロッパ祖語時代の、ヨーロッパにおける中核的文化<ref>おそらくヤムナ文化は[[イラン語派]]の系統の[[遊牧民]]が優勢な文化であったろうと推測される。</ref>であったという広く定着している認識に矛盾は生じない。
 
[[ヤムナ文化]]の人骨からは[[印欧語族]]系民族に高頻度な[[ハプログループR1b (Y染色体)]]が91.5%の高頻度で検出されている<ref>[http://www.eupedia.com/europe/ancient_european_dna.shtml#Bronze_Age Eupedia]</ref>。
 
== 注釈 ==