「ウラジーミル1世」の版間の差分

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== キリスト教導入後 ==
 
[[988年]]には[[キリスト教]]を国教として導入、加えて[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[バシレイオス2世]]の妹[[アンナ (キエフ大公妃)|アンナ]]と結婚し<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p76]]</ref>、キエフ大公国の権威を上昇させると共に、当時最先端であった[[ビザンツ文化]]を取り入れるなど、優れた手腕を見せた。ウラジーミルは[[ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち|12人の息子]]をキエフ大公国の各地に封じて土着の勢力を抑えた。近隣との関係はおおむね平穏であったが、[[ペチェネグ人]]には悩まされた。アンナの死後、ウラジーミルは再婚した。相手は[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]の孫娘のひとりであったとする説がある。晩年には、税の支払いを拒否した息子[[ヤロスラフ1世]]と対立し、これを討つための準備中にキエフ近郊の[[ベレストヴェ|ベレストヴォ]]で死去した(1015年)。
 
ウラジーミルの遺体は、分割され、彼が建てたさまざまな[[教会]]に送られて[[不朽体]]([[聖遺物]])として崇敬を受けた。キエフの最も[[聖ヴォロディームィル大聖堂|大きな大聖堂のひとつ(聖ヴォロディームィル大聖堂)]]がウラジーミルに捧げられた。ウラジーミルへの崇敬はルーシの伝統となった。19世紀には[[ウクライナ]]における[[キエフ大学]]の正式名称は、キエフ・ルーシに文明とキリスト教をもたらした人物としてウラジーミルの名称を冠している。[[ロシア帝国]]では[[聖ウラジーミル勲章]]が設けられた。ウラジーミルは[[正教会]]から13世紀に列聖され<ref>[http://ruhistory.narod.ru/history/tsar/vlad1.html Vladimir I Svjatoslavich (? - 1015)]</ref>、[[カトリック教会]]でも[[聖人]]として崇敬されている。[[政治]]・[[軍事]]ともに大きな成果を収めたウラジーミル1世の功績は、民族叙事詩である「[[ブィリーナ]]」で、また修道士ヤコフ・ムニフの『頌詞』のなかで賞賛されている。彼と共に、東スラブにおけるヴァリャーグ人時代は終わり、キリスト教時代が始まった。