「ベンガル太守」の版間の差分

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[[1756年]][[4月1日]]、アリー・ヴァルディー・ハーンが死亡したことにより、孫の[[シラージュ・ウッダウラ]]が太守位を継承した<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.82</ref><ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid5.htm Murshidabad 5]</ref>。だが、その継承をめぐって深刻な後継者争いが起きた。
 
即位後、シラージュ・ウッダウラは自分に敵対するガシティー・ベーグムに味方した[[ダッカ]]市長[[フサイン・クリー・ハーン]]を殺害した。ガシティー・ベーグムは後任の市長に[[ラージャ・ラージ・バラフ]]を任命しため、シラージュ・ウッダウラはラージャ・ラージ・バラフが[[公金]]を[[横領]]したとして、その邸宅をおさえ彼を逮捕したが、息子の[[クリシュナ・ダース]]はイギリスのカルカッタに逃げ込んだ。
 
その際、シラージュ・ウッダウラはフランスに対抗するためイギリスが行ってきたカルカッタのウィリアム要塞の強化増築に不服であり、イギリス東インド会社の職員が行ってきた勝手な私貿易はベンガル経済に大きな打撃を与えていると抗議し、イギリスに対してただちにこれらの中止をイギリスに要求した。1717年の勅令に関しては、ムルシド・クリー・ハーンからアリーヴァルディー・ハーンまですべての太守がイギリスの解釈に異議を唱え、会社社員の私貿易における自由通関券の悪用を厳しき取り締まったが、社員らは隙を見つけては悪用していた<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.62</ref>。
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