「ケーニヒスベルク (プロイセン)」の版間の差分

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[[ファイル:Älteste Königsberger Siegel.JPG|thumb|left|ケーニヒスベルクを構成していた3つの都市の紋章。<br/>アルトシュタット (Altstadt) 1360年、<br/>レーベニヒト (Löbenicht) 1413年、<br/>クナイプホーフ (Kneiphof) 1383年]]
[[ファイル:ID003590 B024 Stadtplan.jpg|thumb|300px|第二次世界大戦前のケーニヒスベルクの地図]]
ケーニヒスベルクが建設される以前の土地は、いくつかのプルーセンの集落とトワングステ Twangste (Tuwangste, Tvankste) として知られた砦が存在していた。[[1255年]]の[[ドイツ騎士団]]によるプロイセンの[[サンビア族 (プロイセン)|サンビア族]]征服の折、トワングステは破壊され、「Conigsberg」として知られる新しい要塞が建設された。この要塞の名の由来は、[[プロシア十字軍]]の時代に<ref>Biskup</ref><ref>Koch, p. 10</ref>{{要出典範囲|最初の要塞の費用を支払った[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世]]に敬意を表して、そこを「'''王の山'''」([[ラテン語|羅]]: castrum Koningsberg, Mons Regius, Regiomonti)を意味する「Conigsberg」と名付けたことによる|date=2016年9月}}<ref>Biskup</ref><ref>Koch, p. 10</ref>。この新しい[[ケーニヒスベルク城]]の周り([[ヴィストゥラ潟]]からおよそ7kmの地点<ref name="B174">Baedeker, p. 174</ref>)に、[[プレーゲル川]]に沿って[[アルトシュタット]](旧市街)、[[クナイプホーフ]]、[[レーベニヒト]]という三つの街が作られていった。{{要出典範囲|アルトシュタットは[[1256年]]、Steindamm(今のレーニン大通り Leninprospekt)に建設され、クナイプホーフはプレーゲル川の同名の中州(今のカント島 Kant)で発展した。その二つの街の東方に城池 (Schlossteich) と新プレーゲル川とで囲まれたレーベニヒトがあった。|date=2016年9月}}
 
ドイツ騎士団は[[ザムラント]]の征服を強化し、異教徒の[[リトアニア大公国]]に対する遠征のための基地としてケーニヒスベルクを使用した。[[1262年]]-[[1263年]]のプロシアの反乱での攻城戦にさらされたケーニヒスベルクは、[[リヴォニア騎士団]]により解放された<ref>Seward, p. 107</ref><ref>Turnbull, p. 13</ref>。{{要出典範囲|アルトシュタットは反乱によってプルーセンに破壊され、城下の低地に再建された。その後、1286年にアルトシュタットは[[クルム法]]を授かって都市となり、1327年にクナイプホーフもその法を授かった。|date=2016年9月}}
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=== ブランデンブルク=プロイセン ===
[[ファイル:Schlossteich_Königsberg.jpg|thumb|250px|城池 (Schlossteich) とケーニヒスベルク城。1912年]]
[[三十年戦争]]の間[[ブランデンブルク辺境伯領]]は[[スウェーデン王国]]に侵略されていたため、[[ホーエンツォレルン家]]の宮廷はケーニヒスベルクに避難していた。[[1641年]][[11月1日]]に選帝侯[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]は、プロイセン議会に対し物品税を導入するように促した<ref>Koch, p. 46</ref>。{{要出典範囲|[[1656年]][[1月]]の[[ケーニヒスベルク条約 (1656年)|ケーニヒスベルク条約]]により、フリードリヒ・ヴィルヘルムはプロイセン公国をスウェーデンの封土と認めた<ref>Press (1991), p. 402</ref>。しかし、[[1657年]]の[[ヴェーラウの和約]]により、彼はポーランドとの同盟の代わりに、ポーランドの主権からプロイセン公国を解放するという取り決めをした<ref>Jähnig (2006), p. 68</ref>。[[1660年]]の[[オリヴァ条約]]により、ポーランドとスウェーデンはプロイセン公国の独立を認めた<ref>Frost (2000), p.183</ref> |date=2016年9月}}
 
{{要出典範囲|[[1661年]]にフリードリヒ・ヴィルヘルムは、''jus supremi et absoluti domini''という権限を所有しており、自分の許可によってのみプロイセン貴族が招集されるということをプロイセンの議会に通告した<ref name="Koch56">{{cite book|title=A history of Prussia|first=Hannsjoachim Wolfgang|last=Koch|publisher=Longman|year=1978|page=56}}</ref>。クナイプホーフのヒエロニムス・ロート (Hieronymus Roth) を指導者としたケーニヒスベルク市民は、「大選帝侯」の絶対主義的な要求に反対したが、[[1661年]][[10月]]にフリードリヒ・ヴィルヘルムが2000人の軍隊とともに到着し、権威を強いることに成功した<ref name="Jasinski">{{cite book | title=Historia Królewca: szkice z XIII-XX stulecia | publisher=Ksiaznica Polska | author=Jasiński, Janusz | authorlink=Janusz Jasiński | year=1994 | location=Olsztyn | page=172 | isbn=83-85702-03-2}}</ref>。ロートは慈悲を請うことを拒否したため、[[1678年]]に死去するまでパイツ (Peitz) に収監された<ref name="Koch56"/>|date=2016年9月}}
 
プロイセン貴族は、[[1663年]][[10月18日]]にケーニヒスベルクでフリードリヒ・ヴィルヘルムへの忠誠を誓ったが<ref>Clark, p. 53</ref>、クリスティアン・ルートヴィヒ・フォン・カルクシュタインは選帝侯による軍の資金提供の要請を拒否し、ポーランドに援助を求めたが、選帝侯の工作員に誘拐された後、[[1672年]]に処刑された。プロイセン貴族のフリードリヒ・ヴィルヘルムへの服従により、[[1673年]]と[[1674年]]に選帝侯はプロイセン貴族が認めていない税を徴収し、また、同意なくケーニヒスベルクに駐屯軍を置いた<ref>Koch, p. 57</ref>。経済的、政治的に弱体化しつつあったケーニヒスベルクをプロイセンの[[ユンカー]]の力で強化した<ref>Holborn, ''1648-1840'', p. 61</ref>。
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[[1819年]]にケーニヒスベルクの人口は、63,800人であった<ref>Holborn, ''1840-1945'', p. 8</ref>。{{要出典範囲|[[東プロイセン州]]は[[西プロイセン州]]と同君連合を形成して、1824年から1878年の間、ケーニヒスベルクは連合した[[プロイセン州]]の州都として機能し、ケーニヒスベルク地方の中心地でもあった。|date=2016年9月}}
 
州総督テオドール・フォン・シェーンと新聞「Königsberger Volkszeitung」紙によって、プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]の保守的な施策に対する自由主義の拠点となった<ref>Clark, pp. 440-2</ref>。[[1848年革命]]の時に、大衆の不穏分子による21の事件が起こったが<ref>Clark, p. 476</ref>、大きなデモは鎮められた<ref>Holborn, ''1840-1945'', p. 51</ref>。{{要出典範囲|プロイセン王国主導の[[ドイツ統一]]中の[[1871年]]に、ケーニヒスベルクは[[ドイツ帝国]]の一部となった。15の砦を含む都市の周りの城塞の高度化は、[[1888年]]に完了した<ref name="Museum">{{cite web|dateurl=2016年9月http://world-ocean.ru/en/monuments/posolstvo/past.php|title=The Past...|publisher =Museum of the World Ocean|accessdate=2011-01-01}}</ref>。
 
広範囲にわたる[[プロイセン東部鉄道]]は、[[ブレスラウ]]、[[トルン]]、[[インステルブルク]]、[[アイトクーヘン]]、[[ティルジット]]、[[ピラウ]]などの都市を結んだ。[[1860年]]に[[ベルリン]]と[[サンクトペテルブルク]]を結ぶ鉄道が完成し、ケーニヒスベルクの商取引を増大させた。広範囲にわたる電気鉄道は1900年までに稼働しており、一方、汽船が定期的に、[[メーメル]]、[[タピアウ]]、[[ラビアウ]]、[[ゼレノグラーツク|クランツ]]、ティルジット、[[自由都市ダンツィヒ|ダンツィヒ]]に就航していた。[[1901年]]のピラウへの運河の完成は、ロシアの穀物の取引を増大させたが、東部ドイツのほかの都市と同様に、ケーニヒスベルクの経済は西部ドイツに比べると概して停滞していた<ref>Kirby, ''The Baltic World'', p. 303</ref>。1900年までに、9000人の強力な守備隊とともに人口は188,000人に増大し<ref name="B174"/>、[[1914年]]には、246,000人となった<ref>Kirby, ''The Baltic World'', p. 205</ref>。[[ユダヤ人]]は文化的に多元な都市で活躍した<ref>Clark, p. 584</ref>。
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*{{cite book|last=Christiansen|first=Erik|title=The Northern Crusades|year=1997|publisher=Penguin Books|location=London|page=287|isbn=0-14-026653-4}}
*{{cite book|last=Clark|first=Christopher|title=Iron Kingdom: The Rise and Downfall of Prussia 1600&ndash;1947|year=2006|publisher=Belknap Press of Harvard|location=Cambridge|page=776|isbn=067402385-4}}
*{{cite book|title=The Northern Wars. War, State and Society in Northeastern Europe 1558-1721|first=Robert I|last=Frost|publisher=Longman|year=2000|isbn=978-0-582-06429-4}}
*{{cite book|last=Goettingen Research Committee|otherauthors=Translated by Helen Taubert and Anni Mückenheim|title=German Eastern Territories|year=1957|publisher=Holzner|location=Würzburg|page=196|isbn=}}
*{{cite book|last=Holborn|first=Hajo|authorlink=|title=A History of Modern Germany: 1648-1840|year=1964|publisher=Alfred A. Knopf|location=New York|page=556|isbn=}}
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*{{cite book|last=Kirby|first=David|title=The Baltic World, 1772-1993: Europe’s Northern Periphery in an Age of Change|publisher=Longman|location=London|year=1999|pages=|isbn=058200408X}}
*{{cite book|last=Koch|first=H. W.|title=A History of Prussia|publisher=Barnes & Noble Books|location=New York|year=1978|page=326|isbn=0-88029-158-3}}
*{{cite book|last=Jähnig|first=Bernhart|title=Reiche und Territorien in Ostmitteleuropa. Historische Beziehungen und politische Herrschaftslegitimation|editor=Willoweit, Dietmar |editor2=Lemberg, Hans|publisher=Oldenbourg Wissenschaftsverlag|location=Munich|year=2006|series=Völker, Staaten und Kulturen in Ostmitteleuropa|volume=2|pages=51–72|chapter=Die politischen und rechtlichen Außenbeziehungen des Herzogtums Preußen (1525-1660)|isbn=3-486-57839-1|language=German}}
*{{cite web|publisher=Ostpreussen.net|title=Juden in Königsberg|work=|date=2006-12-12|url=http://www.ostpreussen.net/index.php?seite_id=12&bericht=04&kreis=38&stadt=01|format=|doi=|accessdate=2008-03-05}} {{de icon}}
*{{cite book|last=Press|first=Volker|title=Kriege und Krisen. Deutschland 1600-1715|publisher=Beck|location=Munich|year=1991|series=Neue deutsche Geschichte|volume=5|isbn=3-406-30817-1|language=German}}
{{refend}}
*{{cite book|last=Seward|first=Desmond|authorlink=|title=The Monks of War: The Military Religious Orders|year=1995|publisher=Penguin Books|location=London|page=416|isbn=0-14-019501-7}}
*{{cite book|last=Turnbull|first=Stephen|title=Crusader Castles of the Teutonic Knights (1): The red-brick castles of Prussia 1230-1466|year=2003|publisher=Osprey Publishing|location=Oxford|page=64|isbn=1-84176-557-0}}