「オーストリア=ハンガリー帝国」の版間の差分

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|先代1 = オーストリア帝国
|先旗1 = Flag of the Habsburg Monarchy.svg
|次代1 = 第一共和国 (オーストリア)第一共和国
|次旗1 = Flag of Austria.svg
|次代2 = ハンガリー民主共和国
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|次代3 = チェコスロバキア共和国
|次旗3 = Flag of the Czech Republic.svg
|次代4 = ポーランド第二共和
|次旗4 = Flag of Poland (1919-1928).svg
|次代5 = スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国
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|公用語 = [[ドイツ語]]、[[ハンガリー語]](話されていた言語としては他に、[[チェコ語]]、[[ポーランド語]]、[[ウクライナ語|ルテニア語]]、[[ルーマニア語]]、[[スロヴェニア語]]、[[ボスニア語]]、[[クロアチア語]]、[[セルビア語]]、[[イタリア語]])
|首都 = [[ウィーン]]、[[ブダペスト]]
|元首等肩書 = [[オーストリア皇帝]]兼[[ハンガリー君主一覧|皇帝兼ハンガリー国王]]
|元首等年代始1 = [[1804年]]
|元首等年代終1 = [[1835年]]
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}}
<!--{{オーストリアの歴史}}-->
'''オーストリア=ハンガリー帝国'''(オーストリア=ハンガリーていこく、{{llang|de|言語記事名=ドイツ語|Österreichisch-Ungarische Monarchie}} または {{lang|de|Kaiserliche und königliche Monarchie}}、{{llang|hu|言語記事名=ハンガリー語|Osztrák-Magyar Monarchia}})は、かつて[[ヨーロッパ|欧州]]に存在した[[国家]]。[[ハプスブルク君主国]]の一つとされる。
 
== 概要 ==
[[ハプスブルク家]]([[ハプスブルク=ロートリンゲン家]])の君主が統治した、[[中央ヨーロッパ|中東欧]]の多民族([[国家連合]]に近い)[[連邦]]国家である。[[1867年]]に、従前の[[オーストリア帝国]]がいわゆる「[[アウスグライヒ]]」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの[[同君連合]]として改組されることで成立し、[[1918年]]に解体するまで存続した。'''オーストリア=ハンガリー'''とも。
 
前身は[[オーストリア帝国]]である。領土には、[[オーストリア]]・[[ハンガリー]]・[[ボヘミア]]・[[モラヴィア]]・[[シレジア|シュレージエン]]・[[ガリツィア・ロドメリア王国|ガリツィア=ロドメリア]](ルテニア)・[[スロヴァキア]]・[[トランシルヴァニア]]・[[バナト]]・[[クロアティア]]・クライン・[[キュステンラント]]・[[スラヴォニア]]・[[ブコビナ|ブコヴィナ]]・[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]・[[イストリア]]・[[ダルマティア]]など、多くの地域を抱える大国であった。
 
== 国号 ==
正式名称は[[ドイツ語]]
:{{lang|de|Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone}}
[[マジャル語]]
:{{lang|hu|A birodalmi tanácsban képviselt királyságok és országok és a magyar Szent Korona országai}}
で、[[日本語]]に訳すと「'''帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに[[聖イシュトヴァーンの王冠|神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠]]の諸邦'''」となる。「オーストリア=ハンガリー帝国」以外の慣用的な呼び名としては'''オーストリア=ハンガリー二重帝国'''、'''オーストリア=ハンガリー君主国'''などともいう。[[国名の漢字表記一覧|漢字による表記]]では'''墺洪国'''、'''墺洪帝国'''と表記される。正式なものではないが[[オーストリア帝冠領|オーストリア]]側を指して[[ツィスライタニエン]]([[ライタ川]]のこちら側)、[[ハンガリー王国]]側を指して[[トランスライタニエン]](ライタ川の向こう側)という呼称も存在した。なお、「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」は1915年に「'''オーストリア諸領邦'''(''{{lang|de|Österreichische Länder}}'')」と改称している。
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オーストリア側は、[[7月24日]]期限付きの[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]をセルビア政府に突きつけた。セルビア側は一部保留の回答をし、オーストリア側はこれを不服としてセルビアと開戦した。ドイツがロシアに圧力をかけ、動きを封じるはずだったが、ロシアはセルビア側につきオーストリアと開戦した。続いてドイツもロシアと戦争状態に入り、ドイツと[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]関係にあるオーストリアも遅れてロシアに宣戦。ロシアと[[三国協商]]関係にあった[[イギリス]]・[[フランス]]も相次いで同盟側に宣戦し、ヨーロッパ全土を巻き込んだ[[第一次世界大戦]]が勃発した。
 
開戦当初、どこの国も3ヶ月以内で終了すると予想していた。当初はオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族も政府を支持して戦った。しかし、予想に反し戦争は長期に及んだ。緒戦で小国セルビアに敗北したオーストリア軍は、軍事力の無さを露呈した。多民族国家ゆえに軍の近代化に遅れを取っており、軍内部で使用される言語さえも統一されていなかった。そのため、翌年からは同盟国のドイツ帝国の支援に依存する状況に陥った。
 
[[1916年]]には、68年間帝国に君臨してきた皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]が死去し、国内に動揺が走った。さらに[[1917年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が協商側で参戦し、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]](協商のアメリカ参戦後の名称)は高らかに「[[民主主義]]と封建主義の戦い」を戦争目的として宣伝した。同年11月には、ロシアで[[10月革命 (1917年)|ボリシェビキ革命]]が起き、「パンと平和」を掲げた。その影響で、帝国内では長い戦争の疲れもあいまって厭戦ムードが高まった。帝国は「民主的連邦制」へ向けた国内改革を迫られた。しかし、皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]は理解を示したが、ドイツ人保守派の反抗と諸民族の歩調のずれで、改革は進まなかった。
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そのような中、[[マニフェスト]]どおりロシアの[[ボリシェヴィキ]]政府([[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]政府)はドイツと単独講和し、[[ブレスト=リトフスク条約]]を結んで戦線を離脱した。同盟側が西部戦線で攻勢を強めるのは必至だった。連合国は極秘にオーストリア=ハンガリー帝国と単独講和を結ぼうとしたが、ドイツに発覚して失敗した。オーストリア側から連合国に講和を持ち込むも、フランスがこれを公にして失敗し、ドイツとの間にも溝ができてしまうありさまだった。
 
そんな中、[[シベリア]]で[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]軍団([[チェコ軍団]])の活躍があった。その救出目的に[[シベリア出兵|シベリア干渉]]の名目も立ち、連合国にとってチェコスロヴァキア軍団の活躍は目覚しかった。そこでチェコ人指導者[[トマーシュ・マサリク]]は、しきりにチェコスロヴァキア独立を連合国側に持ちかけ、連合国はマサリクの'''チェコスロヴァキア国民会議'''を臨時政府として承認していた。当初、オーストリア=ハンガリー帝国の解体を戦争目的としていなかった連合国は、それをあっさり踏み越えた。これが端緒となり、帝国内の諸民族は次々と独立を宣言した。盟邦ハンガリーも完全分離独立を宣言した。
 
皇帝カール1世はこれをつなぎとめようとしたが果たせず、[[1918年]]秋に退位して国外へ亡命した。ここに650年間、[[中央ヨーロッパ|中欧]]に君臨した[[ハプスブルク家]]の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国はもろくも崩壊した。
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[[普墺戦争]]に完敗したオーストリア帝国の[[19世紀]]後半から[[20世紀]]前半にかけての世界的な評価は、「[[諸民族の牢獄]]」「遅れた封建体制国家」などとあまり良くなく、[[民族自決]]理念による各民族の自立は、現実には連合国にとっての戦争の正当化のための宣伝材料ともなった。中でも「[[ポーランド]]復活」は、連合国にとって戦争目的の本丸と同義であり、これを果たしたことを連合国は大きく宣伝した。
 
しかし戦後処理にはずさんな点が多くあり、大国の思惑が絡み合って領土確定が行われたため、東欧に平和と安定が訪れることはなかった。戦争目的の筆頭だったポーランドは領土問題に不満を持ち、[[ソビエト連邦]]や[[チェコスロバキア]]と戦争状態に陥り、かつてのオーストリアの盟邦ハンガリーも、戦争責任を問われて領土が大幅に縮小されたため不満がくすぶり続けた。中欧・東欧の混乱は、「ヨーロッパの火薬庫」といわれていた[[第一次世界大戦]]以前となんら変わらなかった。またオーストリアでは、基幹産業がくなり深刻な不況に陥った。
 
やがてドイツで[[アドルフ・ヒトラー]]が台頭すると、かつて連合国側が掲げた「民族自決」を逆手に取られ、中欧・東欧諸国に散らばっているドイツ系人の保護を名目として次々と攻略された。中欧・東欧の小国は各個撃破され、かつての帝国諸民族の血みどろの抗争が繰り広げられた。そして[[第二次世界大戦]]後、中欧・東欧の諸国の大半は[[ソビエト連邦]]の[[衛星国]]として東西[[冷戦]]の最前線となった。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・東欧で、無理やり「民族自決」が適用されたために、さらなる混乱が生まれたのである。
 
帝国の支配体制の一番のメリットは、この混沌とした地域を一応1つにまとめていたことにある。民族は違えど同じ帝国臣民として、帝国内を行き来し、戦争もともに戦った。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した1つの大国であった。昔から[[東ローマ帝国]]、[[ハンガリー王国|大ハンガリー]]、[[モンゴル帝国]]、[[オスマン帝国]]などの支配下に入り、分断・併合の連続だった同地域における秩序確立を、緩やかな統合によって成し遂げていた点だけでも帝国の存在意義は十分にあった。
 
帝国内の各民族の地位については、時代が下るにつれて向上してきていた。諸民族のねばり強い運動や各地域の重要性などもあり、支配階級も譲歩せざるを得なかった。[[オーストリア・マルクス主義]]が主張したような、帝国の「民主的連邦制」への改変まではいかなかったが、それなりの地位を得ることはできた([[アウスグライヒ]])。しかし、その中途半端さが独立への道に進ませたことも事実である。オーストリアの場合は、崩壊の仕方が全くもって最悪であった。長引く戦争で、諸民族の連邦制支持派が衰退して独立派が台頭し、連合国の格好の標的となった。諸外国の介入を受けても引き離されないほどの一体感と統一性を諸民族にもたせることができなかったことが、この帝国の一番の失敗であったと言える。
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逆に、諸民族の離脱によって取り残される形となったオーストリアのドイツ系住民にとっては、帝国の崩壊と領土の縮小のみならず、19世紀以来の[[大ドイツ主義]]に基づくドイツとの合併までも禁止されたため、自己の民族アイデンティティまでも喪失した。これは後々までオーストリアの政情の不安定さをもたらし、ついには自身もオーストリア出身である[[アドルフ・ヒトラー]]の率いる[[ナチス・ドイツ]]による併合([[アンシュルス]])へと至らしめた。
 
== 地域構成 ==
[[ファイル:Austria-Hungary map.svg|thumb|350px|オーストリア=ハンガリーの版図]]
[[ファイル:Cisleithanien Transleithanien.png|thumb|350px|赤色の地域がツィスライタニエン・黄色の地域がトランスライタニエン・緑色が両者共同管理の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ|ボスニア=ヘルツェゴヴィナ]]]]
 
=== 帝国議会において代表される諸王国および諸邦(ツィスライタニエン) ===
:1. [[ボヘミア王国]]
:2. [[ブコビナ|ブコヴィナ公爵領]]
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:15. [[フォアアールベルク州|チロル領フォアアールベルク]]
 
=== 神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦(トランスライタニエン) ===
:16. [[ハンガリー王国]]
:17. {{仮リンク|クロアチア=スラヴォニア王国|en|Kingdom of Croatia-Slavonia}}([[クロアチア]]・[[スラヴォニア]])
 
=== 共同管理 ===
:18. {{仮リンク|共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|en|Bosnia and Herzegovina in Austria-Hungary}}([[ボスニア・ヘルツェゴビナ|ボスニア=ヘルツェゴヴィナ]])
 
=== 植民地 ===
* [[清|大清帝国]][[天津]][[租界地]]([[:zh:天津奥租界]])
* [[ニコバル諸島]]、[[ナツナ諸島]]、[[アナンバス諸島]]及び[[ソロモン諸島]](計画のみ<ref>[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/7155/1/seijigakuronshu_29_1.pdf 明治大学政治学研究論集]</ref>)
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== 文化 ==
{{Main|世紀末ウィーン}}
帝国の末期は、文化の終焉期ではなかった。立派な帝立の劇場や美術・音楽などの学校を有し、文化が振興されていた。その上、文化人だけでなく有能な学者も輩出しており、国勢の衰退傾向を思わせない文化・学問の花を咲かせていた。ことに音楽・美術の点では、当時のヨーロッパの中心的存在であった。若き[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]](画家志望だった)が[[ウィーン]]の帝立美術学校に入学しようとやって来たのもこの時期である。
 
=== 作曲家 ===
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** [[11月11日]] - カール1世退位。
 
== 日本との関係 ==
1873年(明治6年)6月に[[岩倉使節団]]がオーストリア=ハンガリー帝国を訪問しており、その当時のオーストリア各州の地理が、「米欧回覧実記」に記されている<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、358~410頁</ref>。明治22年3月よりビーゲレーベン男爵が特命全権大使として日本に着任し、明治25年まで3年以上勤務した<ref>[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000073771&ID=M0000000000000955809&TYPE=&NO= 墺地利洪牙利特命全権公使バロン、ド、ビーゲレーベン叙勲ノ件 明治25年06月30日]国立公文書館デジタルアーカイブ</ref>。その後任として[[ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー]]伯爵が代理公使として着任した(ハインリヒと日本人妻の次男はのちにEU発足のきっかけとなった[[国際汎ヨーロッパ連合]]を提唱した[[リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー]])。
 
1892年(明治25年)、後にサラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺され第一次世界大戦勃発のきっかけとなった皇太子フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが世界一周旅行の際来日した。1913年(大正2年)皇太子は[[シェーンブルン宮殿]]に見よう見まねで日本庭園を造営させた。1998年(平成10年)日本から庭師を招き正式に[[枯山水]]の庭園が整備された。
1913年(大正2年)皇太子は[[シェーンブルン宮殿]]に見よう見まねで日本庭園を造営させた。1998年(平成10年)日本から庭師を招き正式に[[枯山水]]の庭園が整備された。
 
1910年(明治44年)[[テオドール・エードラー・フォン・レルヒ]](Theodor Edler von Lerch、1869年8月31日 - 1945年12月24日)オーストリア=ハンガリー帝国の軍人(当時の階級は少佐)。日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月に交換将校として来日、翌年新潟県上越市において日本で初めて本格的なスキー指導(ただし一本杖を用いたスキー術)をおこなった。さらに1912年には旭川で指導した
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[塚本哲也]]『エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女』文藝春秋、1992年、ISBN 4-16-346330-5
* [[大津留厚]]『ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して』中央公論社、1995年、ISBN 4-12-101223-2
* [[百瀬宏]]ほか『東欧』自由國民社、2001年、ISBN 4-426-13101-4
* [[中丸明]]『ハプスブルク一千年』新潮社、2001年、ISBN 4-10-149822-9
* 明治・大正初期日本及び墺太利=洪牙利二重帝国下ハンガリーの関係史 [https://independent.academia.edu/japanmagyarkapcsolattortenet LINK]
 
== 関連項目 ==
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* [[オーストリアの首相 (帝国期)#オーストリア=ハンガリー帝国の首相一覧]]
* [[オーストリア人の一覧]]
* [[ハプスブルク君主国]]
* [[世紀末ウィーン]]
* [[日墺修好通商航海条約]]
* [[オーストリア・マルクス主義]]
* [[エードラー|]](免状貴族]]
 
== 参考文献 ==
* 塚本哲也『エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女』文藝春秋、1992年、ISBN 4-16-346330-5
* 大津留厚『ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して』中央公論社、1995年、ISBN 4-12-101223-2
* 百瀬宏ほか『東欧』自由國民社、2001年、ISBN 4-426-13101-4
* 中丸明『ハプスブルク一千年』新潮社、2001年、ISBN 4-10-149822-9
* 明治・大正初期日本及び墺太利=洪牙利二重帝国下ハンガリーの関係史 [https://independent.academia.edu/japanmagyarkapcsolattortenet LINK]
 
{{DEFAULTSORT:おおすとりあはんかりいていこく}}