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この故事に関する記述は、「[[三国志 (歴史書)|正史]]」と小説『[[三国志演義]]』で若干異なっている。
「正史」では「諸葛亮は彼(=馬謖)のために涙を流した」と書かれている。つまり、軍律を守る為に愛弟子を処刑することになり、彼のことを思って諸葛亮は泣いたとされている。
「正史」では「諸葛亮は彼(=馬謖)のために涙を流した」と書かれている。つまり、軍律を守る為に愛弟子を処刑することになり、彼のことを思って諸葛亮は泣いたとされていた。しかし現在では三国志時代の研究が進み、諸葛亮は劉備亡き後から実権を握ったのち自らが所属している文官側の人事を荊州出身者で固めるようになる。文官の要職を故郷荊州の者で固める事に成功した諸葛亮は軍備も荊州で固める野望を抱く、しかし当時は張飛超雲などの恩顧の武将や劉備が抜擢した魏延などの劉備がらみの武将で固められており隙間が無かった。なので北伐を計画しその実行者になる事で人事に口出しできる権限を得る。その後武官の荊州派固めの先鋒として馬謖を北伐の責任者という権限でもって多くの反対者が居たのをねじ伏せ無理矢理抜擢する。周りが反対しても馬謖が実績をたたき出せば黙るし、次回よりスムーズに荊州系の武官をねじ込めるように考えていた諸葛亮。しかしその夢は馬謖の大敗により破れる事になる。馬謖の能力を見抜けなかった自分のふがいなさと、武官側を荊州派で固めるという野望が潰えた事で断罪する時に涙したというのが現在の定説である。
しかし『演義』では、何故泣くのかを[[蒋エン|蒋琬]]に訊かれた諸葛亮は「馬謖のために泣いたのではない」と答えている。諸葛亮は[[劉備]]に「馬謖を重く用いてはならない」という言葉を遺されていたにも拘らず、その言葉を守らなかった自分の不明を嘆き、泣いたとされている。
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