「マルティン1世 (アラゴン王)」の版間の差分

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1373年に結婚した王妃[[マリア・デ・ルナ]]との間の息子マルティン(若マルティン)はシチリア王[[マルティーノ1世 (シチリア王)|マルティーノ1世]]となったが、1409年にマルティーノ1世が嗣子なしに死去すると、マルティーノ2世として息子の王位を継承した。
 
翌1410年には自身も嗣子なしに死去し、後継者も定めていなかったため、マルティン1世の君主位の継承者が定まるまでには2年を要した。1412年に[[カスペの妥協]]で、アラゴン、バレンシア、[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]、シチリアなどの君主位は、妹[[レオノール・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃)|レオノール]]と[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]の子である[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]]が継承した。なお、死因については消化不良{{enlink|Dyspepsia|a=on}}及び[[笑い死に]]とされる<ref>{{cite web|last=Norris|first=Paul N.|title=Patronage and Piety|url=http://www.glossa.fi/mirator/pdf/Morris.pdf Morris.pdf|publisher=Mirator Lokakuu|accessdate=18 May 2011}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref><ref name=doran>John Doran, ''The History of Court Fools'' (Boston: Francis A. Niccolls & Co., 1858), 377-378.</ref>。
 
== 脚注 ==