「マンボ」の版間の差分

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代表曲に「'''[[マンボNo.5]]'''」「'''マンボ・イン'''」が挙げられる。
 
== 各国における受容 ==
=== 米国 ===
マンボがキューバ国外にもたらされたのは、1950年代の[[キューバ革命]]に際してカチャオ・ロペスが米国に亡命したのが嚆矢である。これにペレス・プラード楽団がジャズ調のブラス・セクションのアレンジを加え、ダンスのためのマンボとして世界的に知られた。ビッグバンド形態をとり、ホーン・セクションをリズム楽器として用いる{{Sfn|輪島|pp=57-59}}。
 
=== 日本 ===
日本におけるマンボの初演は、1940年代後半の占領期に進駐米軍への慰問興行を行った[[サヴィア・クガート楽団]]が最初とされる。米軍キャンプ内ではラテン系の音楽が人気を博し、当時同じくキャンプ回りをしていた[[ハナ肇とクレージーキャッツ]]は当初は'''キューバン・キャッツ'''と名乗っていた。この時点で、「エキゾチックでエロチック」というラテン音楽に対する米国と似たような通俗的な解釈も定着した{{Sfn|輪島|pp=59-60}}。
 
通常の興行としてのマンボは、1950年、[[東京宝塚劇場]]における[[中山義夫]]の披露が初例である。レコード発売も続き、1952年にはマンボNo.5の国内版が発売される。8月には[[美空ひばり]]がマンボをいち早く取り入れ、「[[お祭りマンボ]]」を発表する。この年開始された洋楽紹介ラジオ番組[[S盤アワー]]のテーマ曲にプラートの「エル・マンボ」が選ばれる{{Sfn|輪島|pp=70-71}}。
 
翌1953年秋、サヴィア・クガート楽団の来日公演が行われたが、その時楽曲の殆どがマンボであったことから人気が再燃、[[東京キューバン・ボーイズ]]を筆頭にマンボ・オーケストラが続々誕生した。1954年にはニューヨーク風のよりジャズ調に近い曲風がはやる。1955年、ペレス・プラードの出演映画『[[海底の黄金]]』の公開で[[セレソ・ローサ]]が大ヒット、日本のマンボ人気は頂点に達する。1956年9月、セレソ・ローサの訪日公演が実現する。両国国技館での最終3日間公演では、[[ジャンケン娘|三人娘]]がそれぞれ前座をつとめた{{Sfn|輪島|pp=72-76}}。
 
マンボ楽曲のマーケティングにおいて特徴的な面は、ダンスホールを講師が巡回し、ダンス講習会が開かれたことである。以降も、舶来のダンスジャンルの楽曲が輸入された時には、同様の宣伝方法がとられるようになる。この若者を中心とした新しい文化に対して世間一般の風当たりは強かったが、[[岡本太郎]]は「踊は近代と原始をミックスした魅力がある」と絶賛、積極的に擁護した{{Sfn|輪島|pp=78-80}}。
 
1957年に[[カリプソ (音楽)|カリプソ]]が流行すると、マンボ人気も徐々に衰えてゆく。プラートは時を同じくして流行した[[ロカビリー]]と融合させた「[[ロカンボ]]」を発明、米国ではヒットしたが、日本には浸透しなかった{{Sfn|輪島|pp=94-95}}。
 
== 代表的なアーティスト ==
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*[[ティト・ロドリゲス]]
*[[パラダイス山元]]
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|18em}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=[[輪島裕介]] |title=踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽 |date=2015年2月10日 |publisher=NHK出版新書 |isbn=978-4-14-088454-6 |ref={{SfnRef|輪島}} }}
 
== 関連項目 ==