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{{存命人物の出典明記|date=2011年7月}}
'''小田島 雄志'''(おだしま ゆうし、[[1930年]]([[昭和]]5年)[[12月18日]] - )は、日本の[[英文学者]]、演劇評論家。[[東京大学]]名誉教授、[[東京芸術劇場]]名誉館長。[[日本演劇協会]](理事) <ref>日外アソシエーツ現代人物情報より< name="nami" /ref>。豊島区芸術顧問<ref>朝日新聞人物データベースより< name="adb" /ref>。
 
姉の[[阿部明子]](あかし)は[[東京家政大学]]名誉教授<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.21</ref>。妹の松村紀代子は、文藝春秋の編集者をへて、エッセイスト<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.21</ref>。次男の[[小田島恒志]]も英文学者、[[早大]]教授<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.94</ref>。恒志の妻の[[小田島則子]]も英文学者、翻訳家<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.94</ref>。
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1948年、佐世保に転居。同年、旧制福岡高校文甲に入学。[[1949年]](昭和24年)7月、新制東大文Ⅱに入学。父興三のすすめにしたがい文Ⅱを選択。2年生の時にたまたま入手した[[坪内逍遥]]訳『シェイクスピア全集』や、続いて読んだ『[[ハムレット]]』の原書に感動し、[[シェイクスピア]]研究を志すようになった。
 
1953年、[[東京大学]]文学部英文学科卒業<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より< name="nami" /ref>。1956年、東京大学大学院人文科学研究科英文学専攻修士課程修了<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より< name="nami" /ref>。
 
== 経歴 ==
1956年~1959年、[[国学院大学]]専任講師、1959年~1961年[[津田塾大学]]専任講師、1961年~1963年、[[東京大学]]教養学部専任講師、1963年に同助教授、1978年に同教授<ref>朝日新聞人物データベースより< name="adb" /ref>。1981年から、東京大学大学院比較文学兼任担当(外国文学受容史担当)<ref>読売人物データベースより< name="ydb" /ref>。1991年に定年して、東京大学名誉教授<ref>朝日新聞人物データベースより< name="adb" /ref>。
 
1991年から[[文京女子短期大学]]教授、1993年から[[東京芸術劇場]]館長兼務、2002年に文京女子短期大学は[[文京学院大学]]短期大学に名称変更して同教授。2004年に同客員教授<ref>朝日新聞人物データベースより< name="adb" /ref>。2007年、東京芸術劇場名誉館長<ref>読売人物データベースより< name="ydb" /ref>。
 
オズボーン、ウエスカー、アーデンなどイギリス現代演劇の紹介、翻訳につとめる<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より< name="nami" /ref>。1966年、[[池田健太郎]]とともに[[文学座]]「文芸部顧問」として参加、翌1967年「顧問」から「座員」に<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.68-70</ref>。文学座でのシェイクスピア上演をめざしたが、1970年に退団<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.79</ref>。
 
その後、1972年、演出の[[出口典雄]]からの誘いにより<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P78</ref>、小田島訳シェイクスピア作品が初めて文学座により上演される<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より< name="nami" /ref>。
 
シェイクスピアの全戯曲37編の個人全訳に取り組み、1973年から「シェイクスピア全集」(全7巻,白水社)刊行開始。1975年からの、[[出口典雄]]が創設した[[シェイクスピア・シアター]]のシェイクスピア作品の上演に翻訳を提供したこともあり<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.81</ref>、1980年に全作品を訳了した<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より< name="nami" /ref>。シェイクスピアの個人全訳は、故坪内逍遙についで2人目<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より< name="nami" /ref>。[[1980年]]に[[芸術選奨文部大臣賞]]を受賞。
 
[[1995年]]、[[紫綬褒章]]を受章、[[2002年]]、[[文化功労者]]に選ばれる。[[2008年]]、新人を対象に[[小田島雄志翻訳戯曲賞]]が制定された。
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[[アントン・チェーホフ]]の作品を愛好し、いわゆる四大戯曲を[[マイケル・フレイン]]による英語訳を元に日本語訳した。この英語訳からの日本語訳という作業は翻訳のあり方をめぐる議論を喚起した。大学院生の時にアルバイトで「池永保夫」という筆名を使ったこともあるが、誰もこれを「チェーホフ」とは読んでくれなかったという。
 
読売映画・演劇広告賞審査員の審査委員もつとめた<ref>読売人物データベースより< name="ydb" /ref>。
 
[[宝塚歌劇]]のファン。[[大河内豪]](東京宝塚劇場支配人)とはファン仲間だった。
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*1995 [[紫綬褒章]]
*2002 [[文化功労者]]
*2011 [http://info.yomiuri.co.jp/culture/2011/02/post-19.html 読売演劇大賞・芸術栄誉賞]
 
== 交友関係者 ==
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== 脚注 ==
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<ref name="ydb">読売人物データベースより</ref>
<ref name="adb">朝日新聞人物データベースより</ref>
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