「近藤貞雄」の版間の差分

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[[1989年]]より日本ハムの監督を務める。[[4月10日]]の対ダイエー戦では7回、[[加藤伸一]]による一塁への牽制球をめぐって、最初三塁に投げようとした事がボークではないかと猛抗議し、退場処分となる。63歳6カ月での退場処分は阪神タイガースの監督だった[[1967年]]の[[藤本定義]]の62歳9カ月を抜く、当時の史上最年長記録であり、加えて[[平成]]初の退場者となった。同じ年の[[7月20日]]の対オリックス・ブルーウェーブ戦でも、[[酒井勉]]の牽制球を巡って抗議し、退場処分を受け自らの最年長記録を更新している<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1204/kiji/K20120410003018510.html 平成退場1号は大正生まれのダンディー・近藤貞雄]スポーツニッポン 2012年4月10日</ref>。[[1991年]]に退任。
 
以降[[1992年]]から[[2005年]]まで中部日本放送野球解説者・[[中日スポーツ]]野球評論家を務める。野球解説者が[[スポーツ新聞]]などに寄稿する場合、実際の記事は解説者から話を聞いた記者([[ゴーストライター]])が書くケースがほとんどといわれている。しかし近藤は、そのような場合自ら記事を書いた。中日スポーツの増田護記者がその理由を聞くと、「話したこととニュアンスが違う(記事になった)ことがあったんだ。それじゃあ自分で書けばいいんだから勉強もしたよ」と答えたという(『中日スポーツ』2006年[[1月3日]])。また、教え子の1人であった板東英二は近藤が「ディスクジョッキーみたいなものをやってみたい」という意向をもっていたことから、それも踏まえて「自分で(記事を)書かなけりゃボケますよ」とアドバイスしたという<ref>板東英二『プロ野球 今年は黙ってられないゾ』青春出版社、1995年、226頁。</ref>。なお、近藤の願望は中部日本放送解説者に復帰した直後の1992年4月に始まったCBCラジオのワイド番組『もぎたてのカボチャたち』のパーソナリティー就任で実現することとなった。
 
[[1999年]][[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り。