「アル=ハラム・モスク占拠事件」の版間の差分

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== 当時の状況 ==
1979年初頭の[[イラン革命]]は、「国内にいる[[シーア派]]を刺激すること」および「国家体制の西欧化を批判し[[イスラム主義]]を標榜する[[イスラーム過激派]]を増長すること」の2つの点でイスラム湾岸諸国(特にサウジアラビア)にとって脅威となった。[[ルーホッラー・ホメイニー]]は、サウジアラビアの[[サウード家]]支配を厳しく批判し、サウジアラビアの国民や膨大な数の[[外国人労働者]]に対して革命を扇動していた。また、事件の首謀者ジュハイマーン・アル=ウタイビーはかつての[[イフワーン]]の指導者[[スルターン・ビン・バジャード]]の孫で「アル・イフワーン」を名乗っており<ref>Lacey, Robert (2009). Inside the Kingdom : Kings, Clerics, Modernists, Terrorists, and the Struggle for Saudi Arabia. Viking. p. 31.</ref>、先祖代々のサウジ王室への復讐を目論んでいた。
 
== 占拠 ==