「アル=ハラム・モスク占拠事件」の版間の差分

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彼らへの尋問から、占拠の起こった20日、モスク訪問が予定されていた国王を捕えて人質とすることが計画されていたことが明らかになった(国王のモスク訪問の予定は変更されていたため、国王は難を逃れた)。拘束されたアル=ウタイビーと67名の仲間らはサウジアラビアの法により翌[[1980年]][[1月9日]]に4ヶ所の処刑場で[[公開処刑]]され、その模様はテレビ中継された。
 
この占拠事件に呼応するように、東部を中心にシーア派による暴動、衝突が起こっている。シーア派の暴動や過激な運動はその後勢いを増し、シーア派への懐柔と取り締まりはサウジアラビアの重要な課題となった。これに対して、シーア派地域への[[公共事業]]を増やして不満を和らげ、同時に公安部門による監視を強めるなどの対策が行われた。
 
この事件は、サウジアラビアの国家方針に少なからず影響を与えた。王家と政府(サウジアラビアでは一体である)は特殊部隊の育成をはじめとする国家安全保障体制の整備を急ぐ一方で、これ以降イスラム過激主義者を刺激しないようにする配慮が欠かせなくなった。[[西ヨーロッパ|西欧]]化や[[近代化]]の勢いは停滞し、外国文化の流入をより一層厳しく制限するようになった。
 
[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]が[[イスラム世界]]の注目を集めると、イスラム過激主義者たちは[[ムジャーヒディーン]]の派遣や資金の援助を主張するようになった。サウジアラビア政府は、王室への攻撃を止めることと、彼らを厄介払いする目的で、資金援助つきでこれらの過激主義者を送り出した。[[ウサーマ・ビン=ラーディン]]もアフガニスタンに送られた一人であった。
 
== 脚注 ==