「高宗 (唐)」の版間の差分

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'''高宗'''(こうそう)は、[[唐|唐朝]]の第3代[[皇帝]]。[[太宗 (唐)|太宗]]の第9子。母は[[長孫皇后]]。[[皇帝 (中国)|皇帝]]ではなく「天皇」の称号を使用したことでも知られている
 
== 生涯 ==
父太宗の晩年にあたる貞観17年([[643年]])、[[皇太子]]であった同母長子の[[李承乾]]と第4子は、父の寵愛篤い魏王[[李泰]]が内訌理由に共にねたみ、武力を以て除こうとして失敗した。承乾は皇太子をされ、泰も排斥された。承乾と泰のである[[長孫皇后]]伯父の[[長孫無忌]]の進言もあり、やはり長孫皇后の子である第9子の李治が代わって皇太子に立てられ、太宗の死にともない皇帝に即位した。太宗に溺愛された異母兄の呉王[[李恪 (呉王)|李恪]]([[隋]]の[[煬帝]]の外孫でもあった)を擁立する動きが見られたため、長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑をかけて自殺に追い込み、一族を処刑した。
 
[[663年]]、[[白村江の戦い]]で[[倭]]・[[百済]]遺民連合軍に勝利する。[[666年]]、[[泰山]]にて[[封禅]]を行う。[[668年]]、[[新羅]]と共同([[唐・新羅の同盟]])して、[[隋]]以来敵対関係にあった[[高句麗]]を滅亡させる([[唐の高句麗出兵]])。こうして新羅を除く[[朝鮮半島]]のほとんどを版図に収め、[[安東都護府]]を設置、唐の最大版図を獲得した。しかし、新羅唐との同盟を破棄し、[[676年]]に新羅が朝鮮半島全土を統一を達成([[唐・新羅戦争]])するとしたためついに朝鮮半島経営を放棄した。[[漢民族]]の国家による朝鮮半島支配は、このあと[[明]]の成立まで途絶する
 
この時期になると、[[外戚]]の長孫氏が皇后である[[武則天|武氏]]の一派によって追放され、代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。このため高宗は武后廃立を計画したが、失敗する。のちに丹薬による中毒で眼病を患い、健康をそこなった皇帝もとで実権は完全に武后により掌握された。このような状況のなか[[683年]]に[[崩御]]死去した。
 
病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫無忌その皇后の[[則天]]に実権を握られ続けた皇帝であった。
 
== 宗室 ==
=== 后妃 ===
*[[王皇后 (唐高宗)|王皇后]]:のちに位される
*[[武則天|武皇后]]
*蕭淑妃
*徐婕妤([[太宗 (唐)|唐太宗]]賢妃[[徐賢妃|徐恵]]の妹)
*劉宮人、鄭宮人、楊宮人
*韓国夫人 [[武順]](武則天の姉妹)
*魏国夫人 賀蘭氏(武則天の姪、武順の娘)
 
=== 男子 ===
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*代王 [[李弘]](義宗孝敬皇帝)
*潞王 [[李賢 (唐)|李賢]](章懐太子)
*中宗 [[中宗 (唐)|中宗]](第4代皇帝)李顕]]
*睿宗 [[睿宗 (唐)|睿宗]](第5代皇帝)李旦]]
 
=== 女子 ===