「西郷隆盛」の版間の差分

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=== 薩土密約と薩土盟約 ===
==== 薩土密約 ====
慶応3年([[1867年]])3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、[[大村藩]]・[[平戸藩]]などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と[[土佐藩]]邸で相次いで開催された[[四侯会議]]の下準備をした。5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、[[土佐藩]]の[[板垣退助|乾退助]]、[[谷干城]]らと、薩摩藩の西郷、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約([[薩土密約]])を結ぶ(この密約は、戊辰戦争の際に乾が[[迅衝隊]]を率いて出征し達成されることとなる)。6月15日、西郷は[[山縣有朋]]を訪問し、武力討幕の決意を告げた。16日、西郷と小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・[[品川弥二郎]]らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、[[板垣退助|乾退助]]が独断で江戸市内へ[[築地]]の土佐藩邸に匿っていた水戸浪士を薩摩藩邸に移すことを密約し、[[伊牟田尚平]]・[[益満休之助]]・[[相楽総三]]らを派遣し、破壊工作(江戸や近辺市内で[[放火]]・[[強盗]]による人心攪乱)を行わせ幕府挑発活動の一翼をになうこととなった。
 
==== 薩土盟約 ====