「アロー戦争」の版間の差分

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パークスの行動を見た清国駐在英国全権使節兼[[香港総督]]ジョン・ボーリングは現地の[[イギリス海軍]]を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。
 
[[イギリス首相|イギリス首相]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]は現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、[[イギリスの議会|議会]]の反対により頓挫した。パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前[[カナダ]]総督の第8代[[エルギン伯爵]]兼第12代[[キンカーディン伯爵]][[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|ジェイムズ・ブルース]]を司令官として兵士5,000からなる遠征軍を派遣した。同時に[[フランス第二帝政|フランス]]の[[ナポレオン3世]]に共同出兵を求め、フランスは宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。司令官は[[ジャン・バティスト・ルイ・グロ|グロ男爵]]
であった。
 
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[[1860年]]夏、英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した[[咸豊帝]]は[[熱河]]に避難した。
 
10月7日、8日、英仏連合軍、ことに[[フランス軍|仏軍]]は[[円明園]]で略奪を行った<ref>英軍は、士官に限り僅かに略奪に参加した。英軍士官は、英軍が設立した分捕委員会に、略奪品を納めた(競売にかけられ、123,000円の売上金は、軍に配分された)。</ref><ref>『北京史話』によると、[[パリ]]の図書館と[[大英博物館]]には、[[東晋]]の[[顧愷之]]による『女史箴図』、[[清朝]]の[[沈源]]、[[唐岱]]による『円明園四十景図』などが所蔵されているという。</ref>。[[エルギン伯]]は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。仏軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。10月18日、19日、[[イギリス軍|英軍]]は清朝による捕虜殺害に対する報復として円明園を焼き払った。仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合った。
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