「レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ」の版間の差分

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[[Image:Archduke Leopold Wilhelm of Austria by David Teniers d. J. - 1650s.jpg|thumb|right|180px|レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ]]
'''レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ'''(Leopold Wilhelm von Österreich, [[1614年]][[1月5日]] - [[1662年]][[11月20日]])は、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の貴族・軍人。[[ドイツ騎士団]]総長、[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]総督も務めていた。[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]と最初の妃で[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム5世]]の娘[[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1574-1616)|マリア・アンナ・フォン・バイエルン]]の末子で[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]の弟。
 
父の後押しで若年にもかかわらず高位聖職者となり、次々に顕職を獲得、[[1625年]]に[[パッサウ]][[司教]]、[[1626年]]に[[ストラスブール|シュトラスブルク]]司教、[[1628年]][[ハルバーシュタット]]司教、[[1631年]]に[[マクデブルク]][[大司教]]、[[1635年]]に[[ブレーメン]]大司教、[[1637年]]に[[オロモウツ|オルミュッツ]]司教、[[1656年]]に[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]司教と多数の聖職禄を手に入れた。[[1639年]]に[[三十年戦争]]に対処すべく兄から皇帝軍司令官に任命され、立場上[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]から離れられない兄に代わって[[スウェーデン]]・[[フランス王国|フランス]]と戦った<ref>菊池、P175、ウェッジウッド、P258 - P260。</ref>。
 
しかし、軍を率いたことがく最初から無理のある任命だったため、[[1642年]]にスウェーデンの将軍[[レンナート・トルステンソン]]に[[ブライテンフェルトの戦い (1642年)|ブライテンフェルトの戦い]]に敗れオーストリアを危機に晒した。[[1641年]]からドイツ騎士団総長を務めたが、[[1644年]]に[[トルステンソン戦争]]で[[デンマーク]]救援に差し向けた軍勢が敗北したため司令官を辞任、[[1647年]]にスペイン領ネーデルラント総督に就任してフランス侵攻の準備を進めていたが、翌[[1648年]]に[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]率いるフランス軍と遭遇して大敗([[ランスの戦い]])、スペインからオーストリアへの支援が失われたことで兄がドイツ諸侯と妥協して[[ヴェストファーレン条約]]の締結につながった<ref>菊池、P175 - P176、P185、ウェッジウッド、P469 - P471、P484 - P487、P537、P543。</ref>。
 
ネーデルラント総督在任中は[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]](西仏戦争)でフランス軍と戦い、北フランスの城塞を奪取して回り、ネーデルラント防衛及びスペインの支援に尽くした。また絵画収集に力を入れ、[[ダフィット・テニールス (子)|ダフィット・テニールス]]、[[フランス・スナイデルス]]、[[ピーテル・スネイエルス]]、[[ダニエル・セーヘルス]]、[[ヤン・ファン・デン・ヘッケ]]、[[ジョン・マイケル・ライト]]、[[ヨハン・カスパール・ケルル]]らのパトロンとして活動、[[ブリュッセル]]の屋敷に保管して辞任後はオーストリアへ遺贈、コレクションの一部は後に[[オルレアン・コレクション]]に収められたり[[ウィーン博物館]]に移された。
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{{DEFAULTSORT:れおほると ういるへるむ}}
[[Category:ドイツ騎士団総長]]
[[Category:スペイン領ネーデルラント総督]]
[[Category:オーストリア大公]]
[[Category:オーストリア・ハプスブルク家]]
[[Category:ハプスブルク帝国の軍人]]
[[Category:三十年戦争の人物]]
[[Category:オーストリア大公]]
[[Category:オーストリア・ハプスブルク家]]
[[Category:1614年生]]
[[Category:1662年没]]