「ドン・フアン・デ・アウストリア」の版間の差分
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なお、記事名のうち「[[ドン (尊称)|ドン]]」はスペイン語における男性への敬称で、本来名前に含まないが、一般的に「ドン・フアン・デ・アウストリア」で知られることから、本項ではこれを記事名としている。'''de Austria'''については'''d'Austria'''と表記も見られる。
== 生涯 ==
[[ファイル:Coat of Arms of John of Austria (1545-1578).svg|thumb|180|ドン・フアン・デ・アウストリアの紋章]]
カール5世の寵愛を受けた[[バルバラ・ブロムベルク]]が、1547年に[[レーゲンスブルク]]で出産したと推定されている(1545年2月生まれとの説もあるが、正確な日時も場所も不明である)<ref>西川、p. 247 - 248</ref>。母バルバラは節度に欠けた生活を送っており、ヘロニモを案じた父帝により、3歳半よりスペインで引退した楽師のもとで育てられた。さらに3年後にはカール5世の執事長であるルイス・デ・キハーダとその妻マグダレーナに養育された。
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1573年10月、フェリペ2世の命を受け[[チュニス]]のラ・ゴレータ要塞を陥落させた。しかしフェリペの指示を無視し要塞を解体しなかったためにトルコ軍の反撃を受け敗北した。
1576年より[[ネーデルラント17州|ネーデルラント]]総督を務めた。ネーデルラントではカトリックとプロテスタントの宗教対立が表面化しており、プロテスタントの反乱を支援する[[イ
[[Image:Don john.jpg|thumb|180px|[[エル・エスコリアル修道院]]のドン・フアンの霊廟]]
しかし、1578年8月にフランドル南部の[[ナミュール]]城塞で軍事行動中にドン・フアンは体調を崩し、[[ペスト]]が蔓延していたこともあって、野営地の鳩小屋に隔離された。連日下痢・嘔吐・高熱に苦しみ続け、やがて視力も失い、10月1日午後1時に死去した。病状から死因は[[発疹チフス]]と推測されている。その一方で、彼の侍医ディオニシオによればドン・フアンは長らく[[痔疾]]を患っており、1578年当時彼のもとにいた医師らの誤った治療により死に至ったのだという説もある。
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{{DEFAULTSORT:ふあん あうすとりあ}}
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