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|画像の説明=
|本名=
|愛称=マエチン<ref name="magadata">{{Wayback|date=20080423113908cite web |url=http://www.soccer-m.ne.jp/player/iwata/maedaryoichi.html |title=PLAYER'S DATABASE (2008年版) |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080423113908/http://www.soccer-m.ne.jp/player/iwata/maedaryoichi.html |archivedate=2008年4月23日 }} [[週刊サッカーマガジン|WEBサッカーマガジン]] (2008年2月21日)</ref>
|カタカナ表記=マエダ リョウイチ
|アルファベット表記=MAEDA Ryouichi
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== 来歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[兵庫県]][[神戸市]]で生まれる。1歳の頃から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ転居し、小学1年生までの6年間を[[ロサンゼルス]]で過ごす<ref name="maga1007">{{Wayback|date=20081026115830cite web |url=http://www.soccer-m.ne.jp/field/h1007maeda.html |title=INTERVIEW VOL.1007 |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081026115830/http://www.soccer-m.ne.jp/field/h1007maeda.html |archivedate=2008年10月26日 }} [[週刊サッカーマガジン|WEBサッカーマガジン]] (2004年12月29日)</ref>。日本へ帰国し小学2年生からは[[東京都]]の小学校へ、同3年生時に[[横浜市]]へ転居し{{R|maga1007}}鴨志田緑小学校に通った。
 
2歳年長{{R|maga1007}}の兄の影響でサッカーを始め<ref>{{PDFlink|[https://www.city.iwata.shizuoka.jp/shimin/kouhou/pdf/070101/P02-05.pdf 新春対談]}} 磐田市 (2007年1月1日)</ref>小学3年生の時に本格的に取り組み始める{{R|tfa}}。[[第72回全国高等学校サッカー選手権大会|1993年度の全国高校選手権]]を観て、同大会に出場した[[暁星中学校・高等学校|暁星高校]]への進学を決め<ref name="tfa">[http://www.tokyofa.or.jp/magazine/fanews/vol15/ 巻頭特別企画 ジュビロ磐田 前田遼一インタビュー] 東京都サッカー協会 広報誌 2011 Vol.15</ref>1994年より暁星中学校へ進学。中学生時には東京都選抜やナショナルトレセンに選出された{{R|tfa}}。
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徐々に出場機会を増やしつつあったが、[[2002年のJリーグカップ|2002年6月のヤマザキナビスコカップ]][[ベガルタ仙台|仙台]]戦で後方からの悪質な<ref name="js2011">[http://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00119907 【2011Jリーグヤマザキナビスコカップ】My First Story No.1 前田遼一 (磐田)] Jリーグ:[[J's GOAL]]アーカイブ (2011年6月5日)</ref>ファウルによって右膝を負傷し、外側半月板縦断裂の診断を受け、長期離脱<ref name="pia2002">[http://www.pia.co.jp/hot_sports/hone/0917.html 21世紀の骨のあるヤツ 第138回 前田遼一 サッカー] ぴあ (2002年9月17日)</ref>{{R|maga950}}。
 
磐田のチームメートである[[中山雅史]]及び[[高原直泰]]に影響されて、目指すストライカー像を描きFWとしての素養を磨いていくと{{R|geki2010-11|week2011|js2011|Number2010-2|iva2013}}、負傷から回復した[[2003年]]には恥骨結合炎により欠場した中山の代役として2トップの一角に起用され、ゴール前での精力的な動き出しから<ref name="maga950">{{Wayback|date=20070706205831cite web |url=http://www.soccer-m.ne.jp/field/t03_0950maeda.html |title=INTERVIEW VOL.950 |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070706205831/http://www.soccer-m.ne.jp/field/t03_0950maeda.html |archivedate=2007年7月6日 }} WEBサッカーマガジン (2003年11月20日)</ref>、リーグ戦7得点を挙げた。
 
[[2005年]]からはリーグ戦で3年連続で2桁得点を記録。2007年は右膝半月板損傷によって<ref>{{Wayback|date=20070321013558cite web |url=http://www.jubilo-iwata.co.jp/news_mt/2007/03/post_809.php |title=前田遼一選手の怪我の状況について |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070321013558/http://www.jubilo-iwata.co.jp/news_mt/2007/03/post_809.php |archivedate=2007年3月21日 }} ジュビロ磐田 (2007年3月10日)</ref>出遅れたが、復帰後は攻撃の大黒柱として高レベルのプレーを見せた{{R|magadata}}。同年[[10月9日]]、自身の誕生日に結婚。
 
[[2008年]]、序盤は半月板損傷による再離脱もあったが<ref>{{Wayback|date=20080310054631cite web |url=http://www.jubilo-iwata.co.jp/news_mt/2008/03/post_1225.php |title=前田遼一選手の負傷について |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080310054631/http://www.jubilo-iwata.co.jp/news_mt/2008/03/post_1225.php |archivedate=2008年3月10日 }} ジュビロ磐田 (2008年3月4日)</ref>中盤以降復帰し<ref name="nik2008-05">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20080505-356143.html 長期離脱の磐田FW前田6日復帰で先発も] [[日刊スポーツ]] (2008年5月5日)</ref>、同年[[10月5日]]のJ1第28節[[コンサドーレ札幌|札幌]]戦では、2005年[[7月9日]]のJ1第15節[[セレッソ大阪|C大阪]]戦以来となる3年ぶりの[[ハットトリック]]を達成し完調をアピールした<ref name="nik2008-10">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20081006-416265.html 磐田FW前田ハット岡ちゃん眼前で/J1] [[日刊スポーツ]] (2008年10月6日)</ref>。
 
[[2009年]]には[[10月25日]]のJ1第25節[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦で自身J1リーグ戦3度目となるハットトリックも達成。自身初めてリーグ戦全試合フル出場を果たし、PKなしでの20得点を記録して[[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]]に輝いた。また、自身初の[[2009年のJリーグ#ベストイレブン|Jリーグベストイレブン]]にも選出された。同年オフには複数クラブから移籍を打診され争奪となるも<ref name="nik2009-11">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20091123-568827.html 磐田新旧エース流出危機 前田にオファー] [[日刊スポーツ]] (2009年11月23日)</ref><ref>{{Wayback|date=20091217200451cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/11/25/03.html |title=横浜も“得点王”前田獲り! G大阪と争奪戦 |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091217200451/http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/11/25/03.html |archivedate=2009年12月17日 }}[[スポーツニッポン]] (2009年11月25日)</ref>{{R|nik2014}}磐田に残留{{R|nik2009-12}}。
 
2010年、磐田との2年契約を締結<ref name="nik2009-12">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20091210-574343.html 前田、G大阪獲得オファーも磐田残留] [[日刊スポーツ]] (2009年12月10日)</ref>。なお、クラブからは同年限りで磐田を退団する中山の背番号9を託されていたが<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20091114-565788.html 磐田ゴンの「9番」はエース前田が継承] [[日刊スポーツ]] (2009年11月14日)</ref>{{R|nik2009-11|nik2009-12}}、これを固辞している<ref group="注">9番を引継ぐ者は無く、2010年及び2011年は9番が空き番となった。</ref>。同年11月の[[2010年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ決勝戦]]では[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]を相手に、延長戦に入っても衰えないプレーぶりで{{R|js2011}}自身の挙げた2得点を含めて4得点に絡む大活躍を見せ<ref>[http://www.j-league.or.jp/preview/00001220.html 11/3(水・祝)ヤマザキナビスコカップ決勝:試合総括] Jリーグ (2010年11月3日)</ref><ref name="geki2010-11">[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?75886-66261-fl 前田が圧巻の2得点2アシストで名実ともにエースへ、「今日は遼一デー」] [[ゲキサカ]] (2010年11月3日)</ref>大会MVPに選出された。[[11月27日|同月27日]]のJ1第33節[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦ではヘディングシュートを決め、史上9人目 (日本人では5人目) <ref group="注">磐田所属経験のある選手としては中山雅史、[[藤田俊哉]](達成時は名古屋所属)に次ぐ3人目。一つのクラブでJ1通算100得点を達成したのは日本人では中山と前田のみ。</ref>にして歴代最年少となる<ref name="nik2010-11">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20101128-707510.html 磐田FW前田J1通算100ゴール/J1] [[日刊スポーツ]] (2010年11月28日)</ref>J1通算100得点を{{R|jl2010}}達成。積極的に[[プレスディフェンス|プレス]]を掛け、[[オフ・ザ・ボール|味方のスペースを作る動き]]と{{R|Number2010-1}}正確なトラップ、懐の深いポストプレーで確実にボールを繋ぐ{{R|ron2010}}多様な働きに加え、通年での活躍によって{{R|geki2010-12}}前年より減ったもののシーズン通算17得点を記録。2年連続の得点王([[ジョシュア・ケネディ]](名古屋)と同点で両名受賞)に輝き、[[2010年のJリーグ#ベストイレブン|Jリーグベストイレブン]]にも選出された。2年連続得点王は史上初である<ref>[http://www.jleague.jp/release/article-00003800/ 2010 Jリーグ 各賞受賞者決定 -2010Jリーグアウォーズで表彰-] [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] (2010年12月6日)</ref><ref name="hoc2010">{{Wayback|date=20101206084231cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20101204-OHT1T00291.htm |title=史上初! 前田が2年連続得点王…磐田 |accessdate=2010年12月6日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101206084231/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20101204-OHT1T00291.htm |archivedate=2010年12月6日 |deadlinkdate=2017年9月 }} [[スポーツ報知]] (2010年12月4日)</ref><ref name="geki2010-12">[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?77538-68656-fl 前田が初の2年連続得点王。エースとしてアジア杯でもゴール量産へ] [[ゲキサカ]] (2010年12月6日)</ref>。
 
[[2011年]]はシーズン中盤の負傷離脱もあり3年連続での得点王を逃したが、怪我からの復帰後は9試合6得点と奮闘し、通年では14得点を挙げた。この年限りで磐田との契約が切れる{{R|nik2009-12}}<ref name="sans2011">{{Wayback|date=20120319091430cite web |url=http://www.sanspo.com/soccer/news/111206/sca1112060505005-n1.htm |title=磐田・前田、横浜Mへの移籍が濃厚 |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120319091430/http://www.sanspo.com/soccer/news/111206/sca1112060505005-n1.htm |archivedate=2012年3月19日 }} [[サンケイスポーツ]] (2011年12月6日)</ref>こともあって、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]などの他<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20111028-855703.html 横浜補強の目玉は磐田前田、正式オファー] [[日刊スポーツ]] (2011年10月28日)</ref>{{R|hoc2011|nik2014|sans2011}}、[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|イングランド2部リーグ]]・[[ウェストハム・ユナイテッドFC|ウェストハムUtd]]から獲得オファーを受け<ref name="hoc2011">{{Wayback|date=20111217124228cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20111213-OHT1T00271.htm |title=ウエストハムが前田獲り正式オファー…磐田 |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111217124228/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20111213-OHT1T00271.htm |archivedate=2011年12月17日 }} [[スポーツ報知]] (2011年12月14日)</ref><ref name="nik2011">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20111213-876045.html 代表エース前田移籍へ! イングランド] [[日刊スポーツ]] (2011年12月13日)</ref>渡英<ref name="47N2012">[http://www.47news.jp/CN/201201/CN2012011101001014.html J1前田、駒野が海外移籍か 磐田の日本代表] [[47NEWS]] (2012年1月11日)</ref>。メディカルチェック及び練習参加を行うも{{R|nik2012-01}}、[[査証|労働ビザ]]取得がネックとなり<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20120110-887379.html 渡英の前田ウェストハム移籍へ問題はビザ] [[日刊スポーツ]] (2012年1月10日)</ref>{{R|47N2012}}{{Refnest|group="注"|[[外国人枠 (サッカー)|イングランドは、外国籍選手の就労ビザ取得要件が他国と比べて厳しい]]{{R|nik2011}}。}}契約には至らなかった<ref name="nik2012-01">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20120116-890147.html 前田磐田残留「今年もお世話になります」] [[日刊スポーツ]] (2012年1月16日)</ref>。
 
[[2012年]]はチームの1トップ採用にも適応し<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20120404-928560.html 磐田前田 公式戦4戦連発へ「決めたい」] [[日刊スポーツ]] (2012年4月4日)</ref>、相手からのマークが厳しくなる中でつぶれ役としても奮闘<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20120503-944539.html 磐田FW前田 トンネル脱出弾だ] [[日刊スポーツ]] (2012年5月3日)</ref>。日本代表招集中の負傷の影響で1試合欠場したものの、33試合に出場した。中盤までは好調で、得点ランキングでは一時[[佐藤寿人]]に次ぐ2位にまで浮上するも、後半は調子を落とし、最終節まで9試合無得点(自身が欠場した試合含めれば10試合)だったが、最終節[[ガンバ大阪|G大阪]]戦では1得点1アシストの活躍で、通年で13得点を挙げた<ref>[http://data.j-league.or.jp/SS/jpn/team/2012010001_000013_W0707_J.html 選手出場記録] Jリーグ (2012年12月1日)</ref>。
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2013年は「ホットライン」を形成していた[[駒野友一]]や<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20131126-1223262.html 磐田前田5年連続2ケタ弾&カズに並ぶか] [[日刊スポーツ]] (2013年11月26日)</ref>他の攻撃陣との連携が合わず<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/749551?page=2 ジュビロ降格の陰に3つの「不在」。パートナー、リーダー、そして伝統。(2/5)] [[Sports Graphic Number|Number Web]] (2013年11月12日)</ref>、得点の好機が激減<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/jfootball/2013/11/11/post_503/ ジュビロ、J2降格。王者転落を招いた「三大要素」] Sportiva (2013年11月11日)</ref>。波に乗り切れないまま<ref name="nichi2013">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/12/19/kiji/K20131219007226770.html 横浜 マルキ後釜は得点王 磐田・前田に正式オファー] [[スポーツニッポン]] (2013年12月19日)</ref>5年連続のJ1二桁得点を果たせずJ2降格を喫した。
 
横浜FMからの再オファーも報じられたが<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/20140108/jle14010805020000-n1.html “磐田一筋”の前田、横浜M移籍へ 逆転W杯へ新たな挑戦!] [[サンケイスポーツ]] (2014年1月8日)</ref>{{R|nichi2013}}交渉はまとまらず<ref>{{Wayback|date=20140116030919cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20140113-OHT1T00189.htm |title=【横浜M】清水の伊藤翔を獲得へ 前田との交渉決裂 |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140116030919/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20140113-OHT1T00189.htm |archivedate=2014年1月16日 }} [[スポーツ報知]] (2014年1月14日)</ref>、[[2014年]]は磐田の顔として<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2014/01/08/kiji/K20140108007340430.html 磐田 前田残留が濃厚に! 近日中にGMが直接交渉] [[スポーツニッポン]] (2014年1月8日)</ref>クラブ・自身共に初となるJ2でプレー。同年[[7月5日]]、J2第21節[[京都サンガF.C.|京都]]戦でJリーグ通算150得点を挙げた<ref name="daily2014">[http://www.daily.co.jp/newsflash/soccer/2014/07/05/1p_0007118698.shtml 磐田FW前田がJ通算150ゴール] [[デイリースポーツ]] (2014年7月5日)</ref>。シーズン終盤になって[[名波浩]]が監督に就くと、初戦のJ2第34節[[愛媛FC|愛媛]]戦からゲームキャプテンを任された<ref name="ats2014">[http://www.at-s.com/sports/detail/1174153124.html 前田にFC東京オファー 金園は仙台から] [[静岡新聞]] (2014年12月23日)</ref>{{R|chu2014}}。名波はこの登用について「ゴールでチームを引っ張ってほしいのですが、それだけの責任では足りないと。彼がこのクラブで高校を卒業してからやってきて作り上げた地位は確固たるものだと、僕自身もサポーターもそれからクラブも思っていると思うので。その確固たる地位というのはだれからも信頼されて、尊敬される立場だと思いますし、そこに責任というのを前田にのしかけたいということが一つ。」と話している<ref>[http://www.jubilo-iwata.co.jp/live/2014/J20140928_2012120188.php 2014 Jリーグ 34 VS.愛媛FC 試合日程・結果] ジュビロ磐田</ref>。通年37試合17得点を記録しチーム得点王となったが{{R|ats2014}}、プレーオフで敗れJ1昇格は叶わなかった。
 
磐田からはエース{{R|ats2014}}の流出を防ぐべく契約延長を打診されていたが、大幅な減俸提示であったことから<ref name="chu2014">[http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20141228/CK2014122802000081.html ジュビロ磐田の前田 FC東京移籍へ] [[中日新聞]] (2014年12月28日)</ref>J1でのプレーを希望し<ref name="nik2014">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20141223-1412435.html 磐田前田サイドが東京オファー認める] [[日刊スポーツ]] (2014年12月23日)</ref>、この年限りで15年在籍した磐田を退団。
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高校3年生時にU-18日本代表に選ばれ{{R|pia2002}}、[[2000年]]にはU-19日本代表の一員として[[AFCユース選手権2000|AFCユース選手権]]準優勝に貢献。1得点ながら柔軟なボールコントロールと閃きでチャンスを作り{{R|pia2002}}大会MVPに選出された{{R|maga950}}<ref name="QATQR">"U-22日本代表「群雄割拠の予兆」"週刊サッカーダイジェスト、2003年2月4日号</ref>。[[2001年]]には、U-20日本代表の一員として[[2001 FIFAワールドユース選手権|ワールドユース]]に出場した。
 
2001年10月、20歳にして{{R|nik2012-09}}[[フィリップ・トルシエ]]率いるA代表の候補合宿に初選出された<ref name="jfa2001">{{Wayback|date=20051125182233cite web |url=http://www.jfa.or.jp/CGI/top/top.cgi?key=backup&0=1096 |title=日本代表候補トレーニングキャンプ(10/22・23)について |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051125182233/http://www.jfa.or.jp/CGI/top/top.cgi?key=backup&0=1096 |archivedate=2005年11月25日 }} 日本サッカー協会 (2001年10月18日)</ref>。翌2002年からの[[ジーコ]]体制下の4年間は招集なし<ref name="nik2012-09">[http://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20120912-1015452.html ジーコに呼ばれなかった前田弾/W杯予選] [[日刊スポーツ]] (2012年9月12日)</ref>。
 
[[2004年]]はU-23日本代表として[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]最終予選に出場<ref name="saishu">[http://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00005384 U-23日本代表オリンピック・アジア最終予選/UAEラウンドメンバー発表] [[J's GOAL]] (2004年2月16日)</ref>。既に磐田ではFWでのプレーを続けていたが、[[山本昌邦]]監督からはMFに配された{{R|week2011}}<ref name="tcs2004">{{Wayback|date=20040408170723cite web |url=http://tochu.tokyo-np.co.jp/00/soccer/20040314/spon____soccer__000.shtml |title=山本監督秘策、トップ下前田 U—23日本代表、きょうバーレーン戦 |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040408170723/http://tochu.tokyo-np.co.jp/00/soccer/20040314/spon____soccer__000.shtml |archivedate=2004年4月8日 }} [[東京中日スポーツ]] (2004年3月14日)</ref>。本大会直前で<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/09/12/kiji/K20120912004097610.html 前田 ゴンに言われた言葉を胸に「このままでは危ないって試行錯誤の連続」] [[スポーツニッポン]] (2012年9月12日)</ref>メンバー選考から漏れ、予備登録に留まった。
 
[[2006年]]秋、[[イビチャ・オシム]]指揮の下、これまで候補止まりであったA代表に初選出された。オシムからは、運動量が非常に多く、個人技術に優れ、見た目にはそれほど速くは見えないが、いつの間にか相手にとって危険な地域にいる、日本に不足していたタイプと評され<ref name="js2007">[http://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00050182 【AFC アジアカップ2007】日本代表チームメンバー発表記者会見でのオシム監督(日本代表)コメント] Jリーグ:[[J's GOAL]]アーカイブ (2007年6月18日)</ref>大きな期待を寄せられた<ref name="Number2010-1">[http://number.bunshun.jp/articles/-/63777 献身的なFW“ジュビロの前田遼一”は、“日本の前田遼一”になれるのか? (1/3)] [[Sports Graphic Number|Number Web]] (2010年11月17日)</ref>。2007年10月17日、[[サッカーエジプト代表|エジプト代表]]戦{{Refnest|group="注"|オシムが日本代表監督として指揮した最後の試合である{{R|Number2010-1}}。}}に先発出場し、[[国際Aマッチ]]初ゴールを挙げた。
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[[2010年]]、[[アルベルト・ザッケローニ]]の監督就任以降は初采配時から代表に選ばれ、1トップに入りしぶとくポストプレーをこなして味方を助け<ref name="Number2010-2">[http://number.bunshun.jp/articles/-/63777?page=2 献身的なFW“ジュビロの前田遼一”は、“日本の前田遼一”になれるのか? (2/3)] [[Sports Graphic Number|Number Web]] (2010年11月17日)</ref>、[[AFCアジアカップ2011|2011年1月開催のAFCアジアカップ]]にも選出された。身体の強さと高さを発揮し、巧みにボールを引き出してチーム戦術に適応<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/87899?page=3 <アジア杯、三者三様のFW像> 得点力不足は解消したか。-岡崎慎司、李忠成、前田遼一- (3/4)] [[Sports Graphic Number|Number Web]] (2011年2月16日)</ref>。同大会では全6試合に先発出場し、グループリーグ[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア代表]]戦で2得点、準決勝[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]戦では同点に追いつくゴールを決め、日本代表の2大会ぶり4回目の優勝に貢献した。怪我の影響で一時選外となるが、同年11月に代表に復帰し、[[2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選|FIFAワールドカップアジア3次予選]]の[[サッカータジキスタン代表|タジキスタン代表]]戦には途中出場で1得点を挙げ、[[サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表|北朝鮮代表]]戦では先発出場した。同年の活躍により、日本代表のエースストライカーとも称された{{R|nik2011}}。
 
[[2012年]]もA代表に定着し、ザッケローニが海外でプレーするFWが見たいと明言して選抜した<ref>[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?96059-95126-fl ウズベク戦へ海外組11人を招集、ザッケローニ監督会見要旨] [[ゲキサカ]] (2012年2月25日)</ref>FIFAワールドカップアジア3次予選の[[サッカーウズベキスタン代表|ウズベキスタン代表]]戦を除く予選全試合に招集されるも、同年10月の欧州遠征では練習中に左太腿裏を痛め、試合に出場しないまま途中離脱<ref>{{Wayback|date=20121011071123cite web |url=http://www.sanspo.com/soccer/news/20121010/jpn12101005020005-n1.html |title=前田離脱…広島・佐藤寿を追加招集 |accessdate=2013年1月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121011071123/http://www.sanspo.com/soccer/news/20121010/jpn12101005020005-n1.html |archivedate=2012年10月11日 |deadlinkdate=2017年9月 }} [[サンケイスポーツ]] (2012年10月10日)</ref>。[[2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選|FIFAワールドカップアジア最終予選]]では、1トップとして{{R|nik2012-09}}全試合に先発出場。前線の好連携で<ref name="iva2013">[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/jfootball/2013/03/05/post_344/index.php 【日本代表】前田遼一「そりゃ、自分で点が取れれば取りたい」(1/3)] Sportiva (2013年3月5日)</ref>攻撃のリズムを作り出し<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/jfootball/2012/06/04/post_186/index2.php 【日本代表】本田と香川だけじゃない。出色の出来だった前田遼一が生み出した攻撃のリズム] Sportiva (2012年6月4日)</ref>、自身も5試合で3得点を挙げる高い得点能力で{{R|iva2013}}予選突破を果たした{{R|ats2014}}。
 
[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|2013年のFIFAコンフェレーションズカップ]]でも、得点場面だけではない90分通しての貢献度を高く評価されて<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/japan/2013/columndtl/201306050010-spnavi ザック監督「世界との差を測る絶好の機会」イラク戦、コンフェデ杯メンバー発表会見] (2013年6月5日)</ref>全3試合に出場。ザッケローニからは[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]戦において[[アンドレア・ピルロ]]対策を完璧に行ったと賛辞され<ref>{{Cite book|和書|title=通訳日記 ザックジャパン1397日の記録|page=233|author=矢野大輔|year=2014|publisher=[[文藝春秋]]}}</ref>、元イタリア代表監督の[[アリゴ・サッキ]]からも同試合で一番印象に残った選手として挙げられたが<ref>Number 2013年9月19日号</ref>、好機を逸し<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20140302-1264609.html J2今日開幕! 磐田前田W杯への思い語る] [[日刊スポーツ]] (2014年3月2日)</ref>無得点に終わる。その後、代表経験の少ない選手中心で臨んだ東アジア選手権で柿谷と大迫が活躍すると、以降はその2人を起用する形となり、[[2014 FIFAワールドカップ]]本大会メンバーからも外れた<ref>{{Wayback|date=20140525021629cite web |url=http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20140513/CK2014051302000087.html |title=サッカーW杯代表決定 長谷部、内田、伊野波ら |accessdate=2014年5月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140525021629/http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20140513/CK2014051302000087.html |archivedate=2014年5月25日 }} [[中日新聞]] (2014年5月13日)</ref>。W杯メンバーからは外れたものの、メンバー発表後にザッケローニは通訳の矢野大輔を通じて電話で前田にこれまでの感謝の言葉を送っている<ref>あ{{Wayback|date=20140915cite web |url=http://news.livedoor.com/lite/article_detail/9255246/ |title=ザック通訳の矢野大輔氏、ブラジルW杯メンバー発表後に落選した選手に電話していたことを明かす |accessdate=2017年6月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140915/http://news.livedoor.com/lite/article_detail/9255246/ |archivedate=2014年9月15日 }} livedoor news(2014年9月15日)</ref>。
 
== 人物・エピソード ==
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|[[2013年のJリーグ|2013]]||第{{0}}5節||[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]||{{0}}6位||J1残留
|}
「前田遼一がリーグ戦でシーズン最初のゴールを決めた相手はJ2に降格する」という内容の[[ジンクス]]「前田(遼一)の呪い」<!--が2010年頃より一部のサッカーファンの間ではしきりに囁かれていた(出典から逸脱した内容のためコメントアウト)-->が、2012年シーズン終盤に相次いで報じられ<!--一般的知名度も向上し-->た<ref>[http://www.goal.com/jp/slideshow/499/7 前田遼一の呪い] Goal.com、2012年9月27日</ref><ref>{{Wayback|date=20121201141958cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20121127-OHT1T00230.htm |title=前田の呪い”解く! 逆転残留へ恐怖のジンクス破る…G大阪 |accessdate=2012年11月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121201141958/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20121127-OHT1T00230.htm |archivedate=2012年12月1日 |deadlinkdate=2017年9月 }} [[スポーツ報知]] (2012年11月28日)</ref><ref>{{Wayback|date=20121201105207cite web |url=http://www.sanspo.com/soccer/news/20121128/jle12112812490003-n1.html |title=ガンバ、磐田・前田の呪い打ち破って残留や |accessdate=2013年1月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121201105207/http://www.sanspo.com/soccer/news/20121128/jle12112812490003-n1.html |archivedate=2012年12月1日 |deadlinkdate=2017年9月 }} [[サンケイスポーツ]] (2012年11月28日)</ref>。現に、2007年の[[ヴァンフォーレ甲府]]に始まり、[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]、[[ジェフユナイテッド市原・千葉]]、[[京都サンガF.C.]]<ref name="nik2010-03">[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20100328-611190.html 昨季得点王磐田前田PKで今季1号/J1] [[日刊スポーツ]] (2010年3月28日)</ref>、[[モンテディオ山形]]と5年連続で対象クラブの降格が続いていた。
 
2012年の対象クラブはJリーグの「[[オリジナル10]]」の一つであり、降格経験のない[[ガンバ大阪]]であったが、G大阪もまた前年まで3、2、3位と続いていた好成績が一転して残留争いに巻き込まれ、最終節で磐田との対戦に敗れれば降格という事態に陥る。そして試合は、前田の1得点1アシストを含む2-1のスコアで磐田が勝利し、G大阪の降格が決定。6年連続でジンクスが継続する結果となったが<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/12/01/kiji/K20121201004680790.html G大阪 初の降格…磐田に敗戦、“不吉ジンクス”覆せず] [[スポーツニッポン]] (2012年12月1日)</ref><ref>[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?108175-110720-fl G大阪までもが…“前田の呪い”は今季も継続] [[ゲキサカ]] (2012年12月1日)</ref>、2013年に前田がシーズン初ゴールを決めた[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]は残留し、逆にこの年は自身の所属する磐田がJ2に降格してしまった。2014年に前田がシーズン初ゴールを決めた[[カマタマーレ讃岐]]も年間21位の成績で[[J2・J3入れ替え戦]]に回るも、[[AC長野パルセイロ]]に勝ち、J2残留を決めた。
 
2012年のG大阪戦の後、前田はこのジンクスについて「思うところは何もない<ref>{{Wayback|date=20121202081921cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20121201-OHT1T00252.htm |title=“前田の呪い”6年連続! 本人は「思うところは何もない」…磐田 |accessdate=2012年12月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121202081921/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20121201-OHT1T00252.htm |archivedate=2012年12月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }} [[スポーツ報知]] (2012年12月2日) (2012年12月3日閲覧)</ref>」「もともと何も考えていない<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20121202-1054426.html 磐田前田6年連続「デスゴール」/J1] [[日刊スポーツ]] (2012年12月2日) (2012年12月3日閲覧)</ref>」とコメントした。
 
その後、2013年シーズンの開幕時にコメントを求められた際には「僕としてはやめてほしい。そういう話とは関係なく、ゴールを決めたい<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/03/02/kiji/K20130302005306730.html 呪いに注目も…寡黙な前田きっぱり「僕としてはやめてほしい」] スポニチアネックス 2013.3.2付ニュース</ref>」と、快く思っていないことを明かし、また、磐田の監督[[森下仁志]]も「デスゴールなどと言うのは遼一に対しても相手に対しても失礼」と話した<ref>{{Wayback|date=20130305155008cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20130302-OHT1T00057.htm |title=【磐田】前田「ゴールを決めたい」でも騒ぐのは止めて! |accessdate=2013年3月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130305155008/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20130302-OHT1T00057.htm |archivedate=2013年3月5日 }} [[スポーツ報知]] (2013年3月2日)</ref>。一方、2013年のリーグ初戦で対戦した[[名古屋グランパスエイト]]監督の[[ドラガン・ストイコビッチ]]は、引き分けとなった試合終了後の会見で自ら切り出して「ひとつ大事なことがある。それは前田にゴールを入れさせなかったことだ」と語り、さらに頭の上で丸印を作り「これでJ1に残れる」と笑顔を見せた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/03/03/kiji/K20130303005309780.html ピクシー "デスゴール"防ぎ「これでJ1に残れる」] [[スポーツニッポン]] (2013年3月3日) (2013年3月6日閲覧)</ref>。
 
多くのスポーツ新聞やテレビ番組等に報じられ、過熱する「デスゴール報道」に、磐田は困惑し、服部健二[[ゼネラルマネージャー|GM]]は報道陣に対して「パフォーマンスに影響が出る可能性があるので、1点目を取るまでは磐田発信でのこの件に関する報道は控えてほしい」と報道の自粛を要請した<ref>{{Wayback|date=20130310042059cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20130309-OHT1T00040.htm |title=【磐田】パフォーマンスに影響、デスゴール報道自粛要請 |accessdate=2013年3月9日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130310042059/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20130309-OHT1T00040.htm |archivedate=2013年3月10日 }} [[スポーツ報知]] (2013年3月9日)</ref>。
 
このジンクスは日本のマスコミだけではなく、イギリスのサッカー誌[[フォーフォーツー]]でも取り上げられたことがある<ref>{{Cite news|url=http://www.football-zone.net/archives/51042|title=前田の“デスゴール”が英誌で話題に 「死を招くフィニッシャー」とJリーグ史に残る伝説を紹介|publisher=フットボールゾーンウェブ|date=2017-01-20|accessdate=2017-01-21}}</ref>。
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**1999年 - フローニンゲン国際ユース大会 (9位)、[[SBSカップ 国際ユースサッカー|SBSカップ]](優勝)
* U-19日本代表
**2000年- テルボルグ国際ユース大会<ref>{{Wayback|date=20040427044048cite web |url=http://www.jfa.or.jp/CGI/top/top.cgi?key=backup&0=624 |title=U-19日本代表候補トレーニングキャンプについて (5月28日-6月4日/オランダ) |accessdate=2015年1月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040427044048/http://www.jfa.or.jp/CGI/top/top.cgi?key=backup&0=624 |archivedate=2004年4月27日 }} [[日本サッカー協会]] (2000年5月19日)</ref> (7位)、アジアユース (予選)、SBSカップ (優勝)、[[AFCユース選手権2000|AFCユース選手権]]{{R|QATQR}}(準優勝)
* U-20日本代表
**2001年 - U-20トーナメント香港 (4位)、[[ニューイヤーユースサッカー|ジャパンユースカップ]] (優勝)、[[トゥーロン国際大会]] (GL敗退)、[[2001 FIFAワールドユース選手権|FIFAワールドユース選手権]] (GL敗退)