「チベット民族」の版間の差分

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== 歴史 ==
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5世紀頃からホタン方面から入ってきた遊牧民の政権が王国を建設した。[[チュルク|テュルク諸語]]や[[モンゴル語]]などではトベットとよび、漢文では[[吐蕃 (王朝)|吐蕃]]と記される。7世紀頃に盛強となる。その後も異民族による直接支配を受けたことがなく、1642年にはダライ・ラマ政権が成立した。
 
1723-32年の「[[雍正のチベット分割]]」により、チベットの東部([[アムド]]全域・[[カム]]東部)の諸侯は分割されて[[青海]]およびチベットに隣接する[[甘粛]]・[[四川]]・[[雲南]]に分属し、[[西寧弁事大臣]]と甘粛・雲南の[[巡撫]]、[[四川総督]]などの中国の地方官より[[六部]]の「[[兵部]]」を介し、[[清朝]]皇帝から所領の安堵を受けることとなった。引き続きダライ・ラマとチベット政府[[ガンデンポタン]]の管轄下に置かれたチベットの中央部([[うー]]・[[ツァン]])および西部([[ガリ]])は、中国側ではまとめて「西蔵」と称されるようになった。