「霜月騒動」の版間の差分

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[[安達時景]]は相模国飯山(現・[[厚木市]])に逃亡したが殺害された。安達一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及して各地で泰盛派が追撃を受け、自害に及んだ。安達氏の基盤である[[上野国]]・[[武蔵国]]の御家人の被害は多く、武蔵では武藤少卿左衛門、[[遠江国]]では安達宗顕、[[常陸国]]では安達重景、[[信濃国]]では伴野彦二郎盛時らが自害した。九州では泰盛の子[[安達盛宗]]が[[岩門合戦]]で敗死した。これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で時間を定めて一斉に襲撃したためと見られる。
 
泰盛与党として罹災したのは泰盛一族の他、[[小笠原足利氏]]、[[足利小笠原氏]][[伴野氏]]、[[伊東氏]]、[[武藤氏]]([[少弐氏]])、その他は[[藤原相範]]、[[吉良満氏]]、殖田又太郎([[大江泰広]])、小早川三郎左衛門、三科蔵人、[[天野景村]]、[[伊賀景家]]、[[二階堂行景]]、(大井)美作三郎左衛門、綱島二郎入道、池上藤内左衛門の尉、行方少二郎、南部孫二郎(政連?)、有坂三郎、鎌田弥藤二左衛門尉、秋山人々など、幕府創設以来の有力御家人層の多くが見られる。一方頼綱方の討手として得宗被官化した御家人の[[佐々木氏]]、[[今川氏]]、[[千葉氏]]なども加わっており、同族内でも頼綱方と泰盛方に分かれるなど、幕府を大きく二分した争乱であった。泰盛と縁戚関係のあった[[北条顕時|金沢顕時]](泰盛の娘婿)は[[下総国]]に蟄居の身となり、[[宇都宮景綱]]、[[長井宗秀]]<ref>[[平禅門の乱]]後に復帰した</ref>らは失脚した。
 
== 霜月騒動後の鎌倉幕府 ==