「イオアニス・カポディストリアス」の版間の差分

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=== 暗殺 ===
[[File:Kapodistrias-statue-190px.jpg|thumb|left|カポディストリアス像(アテネ大学)]]
[[1831年]]、カポディトリアスはラコニア地方に位置する{{仮リンク|マニ半島|en|Mani Peninsula}}の有力貴族{{仮リンク|ペトロス・マヴロミハルス|en|Petrobey Mavromichalis}}を反乱の疑いで投獄した。これに反発した{{仮リンク|マヴロミハルス家|en|Mavromichalis family}}の一族2人により、カポディストリアスは1831年10月9日ナフプリオの聖スピリドナス教会で暗殺された。後任の大統領には、弟である[[アウグスティノス・カポディストリアス]]が就任したが、数ヶ月後、列強諸国によりギリシャには王制が導入され、[[バイエルン王国]]の王子が[[オソン1世]]として王位に就くことになった。また、[[1832年]]には[[コンスタンティノープル条約 (1832年)|コンスタンティノープル条約]]がオスマン帝国との間に結ばれ、独立時のギリシャの領域が確定した。
 
カポディストリアは現在のギリシャでも大きな尊敬を集めている。[[アテネ大学]]の正式名称は、カポディストリアコン=パネピスティーミオン=トン=アシノンであり、旧500[[ドラクマ]]紙幣、現在の20レプタ(ユーロセント)硬貨には彼の肖像が掲げられ、1990年代後半の地方制度改革には彼の名が用いられた。