「鉄弗部」の版間の差分

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[[309年]]、誥升爰が死ぬと、子の[[劉虎 (鉄弗部)|劉虎]]はそのあとを継ぎ、部族名を「'''鉄弗'''(父が匈奴人、母が鮮卑人の意)」と号す。初めは拓跋部に臣従していたが、[[310年]]、[[白部 (鮮卑)|白部]]の挙兵に呼応して鉄弗部も挙兵し、[[并州]][[刺史]]の[[劉琨]]がいる[[新興郡 (中国)|新興]],[[雁門郡|雁門]]の2郡を攻撃した。劉琨は拓跋部に援軍を要請し、拓跋部大人(たいじん:部族長)[[拓跋猗盧]]が甥の[[拓跋鬱律]]率いる2万騎を派遣して、白部と鉄弗部を撃ち破り、その陣営を落とした。劉虎は西走して[[朔方郡|朔方]]に逃れ、漢([[前趙]])の[[劉聡]]のもとに帰順した。劉聡は劉虎を同族の好をもって彼を楼煩公に封じ、安北将軍・監鮮卑諸軍事・丁零中郎将に拝した。
 
[[318年]]、劉虎は朔方に拠り、[[代 (五胡十六国)|代国]](拓跋部)西部に侵攻した。しかし、代王の拓跋鬱律に大敗し、劉虎は敗走して塞([[万里の長城|長城]])を出た。この時、劉虎の従弟である劉路孤は部落を率いて代国に帰順し、拓跋鬱律の娘を娶った。
 
[[341年]]10月、劉虎は代国の西境に侵攻。代王の[[拓跋什翼犍]]は兵を派遣して討伐、これを大破した。この後まもなく劉虎は死去し、子の[[劉務桓]]が立った。劉務桓は鉄弗部大人となると、代国に帰順して代王拓跋什翼犍の娘を娶る。
しばらくして、劉務桓は種落を招集し、ふたたび諸部の雄となる。また、代国に臣従する一方で、[[後趙]]の[[石虎]]と潜通しており、石虎より平北将軍・左賢王・丁零単于を拝命する。
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[[361年]]、劉衛辰はふたたび代国に朝聘する。劉衛辰は苻堅を討つべく挙兵するが、苻堅が派遣した建節将軍の[[トウ羌|鄧羌]]に討たれて捕らえられる。その後、苻堅は劉衛辰を夏陽公とし、その部落を統領させた
[[365年]]1月、劉衛辰は代国に対して謀反を起こし、東へ渡河。すぐに代王拓跋什翼犍に討たれ、劉衛辰は遁走した。
[[367年]]10月、ふたたび代軍の討伐を受け、劉衛辰は苻堅のもとへ逃れた。苻堅は劉衛辰を朔方へ送り還し、兵を派遣してこれを守らせた。
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ある時、劉庫仁が苻堅によって広武将軍に任ぜられると、劉衛辰は劉庫仁より格下となったため、それに怒って苻堅の[[五原郡|五原]][[太守]]を殺して前秦に叛き、劉庫仁の西部を攻めた。これに対し劉庫仁は反撃して劉衛辰を打ち破り、その妻子と部衆をことごとく収めた。
[[386年]]([[登国]]元年)10月、[[北魏]]の北部大人である[[叔孫普洛]]ら13人及び諸烏丸(ここでは諸方雑人来附者の意<ref>内田 1988</ref>)が劉衛辰に亡命。また、魏王[[拓跋珪]]の叔父の[[拓跋窟咄]]が劉衛辰のもとへ逃れてくると、劉衛辰は拓跋窟咄を殺した。
劉衛辰は、[[西燕]]の[[慕容永]]より使持節・都督河西諸軍事・大将軍・朔州牧に任ぜられ、[[後秦]]の[[姚萇]]により使持節・都督北朔雑夷諸軍事・大将軍・大単于・河西王・幽州牧に任ぜられる。
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[[390年]]6月、劉衛辰は、子の劉直力鞮を遣わし、[[賀蘭部]]に侵攻して包囲するが、拓跋珪の援軍により敗走する。
[[391年]]10月、劉衛辰は、子の劉直力鞮を遣わし、北魏の南部に侵攻する。劉直力鞮の兵8〜9万に対し、拓跋珪の兵は5〜6千であったが、鉄岐山の南で大破させ、直力鞮は単騎で逃走した。北魏軍が勝ちに乗って劉衛辰の居城である悦跋城に迫ると、劉衛辰父子は逃走し、白塩池で劉直力鞮が捕まり、単騎で逃げた劉衛辰も部下に殺害されてしまう。衛辰の第三子の[[赫連勃勃|劉勃勃]]は、薛干部帥の太悉伏のもとに亡命した。
 
==歴代大人==